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     紫波町南部曲がり屋・武田家屋床祝い


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240年の歴史を感じさせる武田家南部曲がり屋。

紫波町の志和古稲荷神社から北に進んだ所に、新装なった見事な曲がり家「武田家」があります。私もここはよく通る所ですが、うっかりと言いますか今まで気がつかないで居た場所でした。記録によると、今年で築240年を超える本当に歴史と家格のある曲がり屋です。

新聞報道やイベント情報により、6月8日午後1時半から葺き替え工事終了を祝う「屋床祝い」が行われると知り現地に行ってみました。(※撮影は狭いところで広角レンズを使用することから、柱等が歪んでいる場面があります。)


建物は主屋が南東、曲がり部が南西に面する左構えの曲がり屋で、広さは約108坪である。間取りは、上手奥に三室「おくざ」「したざしき」「しんしつ」を置く。次の列には、幅2間の広めの「なかざ」を配して三室に仕切っている。次に同じ幅で三室、奥「ねべや」「じょい」を置き、手前の部屋の一角には格子戸を持つ小部屋が付属する。現在は、「じょい」「ちゃのま」が分割されているが、復元すると仕切りは取れて奥は1室の大きな「じょい」であり、即ち奥−じょい型の民家となる。「だいどころ」も広く取っているが、現在はかなり改造されている。

以上のように部屋数が多く、広い間取りを持つ武田家は、用材も太めで、「なかざ」「じょい」の間仕切りの指し物は45センチ、「じょい」から「だいどころ」隅の柱に架かる桁行は、最大63センチであった。また、構造は、「おくざ」と「したざしき」の間仕切り上の指し鴨居、「したざしき」と「しんしつ」との間仕切り上の指し鴨居が、ともに「じょい」、「ちゃのま」境を梁行き方向走る巨大な指し鴨居にほぞとなり、その交差部に柱を欠くなど進んだ技法が見られる。「だいどころ」の「にわ」には巨大な上屋角柱が2本立つ。

座敷の上手に立派な庭園を遺し、普通の民家ではなく、家格の高い家構えを示す。建物と庭園、周囲の環境が一体となり、好ましい景観を形成している。明和3年(1766年)建設、馬屋は明和4年(1767年)との記録がある。
                                                    (※現地で頂いた資料から)



儀式が始まるまで時間があったので、武田家曲がり屋に入ってみました。カメラを持った人、スケッチブックを持った人等々がすでに来て見ています。うーん、かなりでっかい曲がり屋です。昔の農家と言っても単なる農家でなく、それなりの地位と家格がある家の様でした。家の入り口には、案内看板と家の歴史等が書かれてあります。藩政時代の肝いりの住宅で、1677年(延宝5年)以来の古文書700点が残っているとのことです。なんと今から330年以上前の資料等が残る、歴史的な武田家でした。

馬屋の東に入り口があり見学に来られる方が多いようで、馬屋の中は資料館になっていました。芳名帳に記帳し幾ばくかの寄進をしました。壁際にガラス戸棚があり、中には古文書と思われる書類や古い教科書、封筒等が束ねて入っています。

コンクリートが張られた土間に見学者用の休み所があり、年配の女性が応対しています。私も挨拶をして色々な話をお聞きしました。「我が家も今はトタンがかかっているが、本体は茅葺きです・・」と言ったら話が弾んでしまった。どこから来たのから始まって茅葺き談義になり、雨漏りで苦労した話をされたが、分かるよなあが実感です。

葺き替えの茅は地元になくて、業者に頼み塩釜や東北各地から広く集めたと言います。「だからすごく金がかかるのです・・」、そうだよなあ、茅を大量に集めここまで運び、葺き替え職人だって昔と違いそんなに居ない。しかも大きな屋敷の全面葺き替えだし、5年がかりである。だから3000万円もかかるのだろう。


後日のことになりますが、このページを御覧になった工事業者の方から下記のようなお便りを頂きました。

武田家で屋根葺きのお話し相手の勘違いがあったようでございますので、正解を申し上げたくてメールさせていただきます。 「葺き替えの茅は地元になくて、塩釜や東北各地から広く集めた」と話されたようでございますが、「昔のオガラの代わりに主に軒に使う葦は石巻から、山茅は金ケ崎から」が正解でございます。

屋根用の葦は、汽水地帯で生産されますので石巻や津軽十三湖が主でございます。山茅は、金ケ崎町の千貫石で生産されました。「南部茅」の名称で年間1万5千束前後が北陸、東海、関東地方を含めて出荷されております。

私は、この茅場開発に係り、その縁で武田家にも係っております。千貫石の茅場は、50ヘクタールほどの刈取り面積の目途ですが、金ケ崎産業開発公社が管理して毎年20ヘクタールぐらいで1万5千束前後出荷しておりまして、今後北上民族村や、遠野に出荷を目指しております。(※工事担当なさった方のメールから)


「今もここで生活している部屋があるが、若い人達には大変ですよ・・」
、お聞きして全く同感な想いです。自分も茅葺き屋根の下で長いこと生活してきたので、新しい内はともかく、古くなって雨漏りするようになると大変なのが痛いほど分かる。ましてや維持管理となると、今の社会情勢では困難だし新築するくらいの経費がかかるからです。

茅葺き屋根の維持管理には最低で三段階があります。
 ・差し茅(痛んだ部分に新しい茅を入れて固定する)
 ・部分葺き替え(広く痛んだ部分を全部取り替える)
 ・全面葺き替え(屋根全体の茅をはがし新しい茅に入れ替える)
武田家では5年がかりで痛んだ部分を部分葺き替えをしてきたとのことでした。

広い屋敷にどっしりと位置する曲がり屋。正面が生活する主屋で、右側が馬屋と作業等をする土間になります。それにしてもかなり大きな曲がり屋です。

家の前には睡蓮の咲く大きなため池が二ヶ所有り、水面に映る風景や曲がり屋がきれいでした。
正面から見た武田家 1・・・石の門柱があり広い屋敷と庭があります。
正面から見た武田家 2・・・主屋の様子です。中二階部分のキリヤがきれいでした。 正面から見た武田家 3・・・主屋と土間・馬屋の交叉部に入り口の大きな木戸があります。この部分の茅の張り具合とカーブが何とも言われません。
東を向いている馬屋の入り口です。柱二つの間隔で一間(1.8m)で、正面の幅が4.5間(約8m)あります。右側には稲の収穫時に使う長木が納められています。

下の画像は、南側から見た様子と曲がり屋の西側から見た様子です。

東から見た馬屋入り口
南側から見た武田家 西側から見た武田家・・・横幅が23m程あり、きれいな茅葺きです。


13:30屋床(やどこ)祝いの儀式が始まりました。見学する皆さんは200人位でしょうか、保存会会長、武田家当主、紫波町教育長の挨拶があり、その後二団体の郷土芸能の奉納がありました。奉納された郷土芸能は、紫波町赤石の南日詰大神楽(獅子舞・竹の子舞・大黒舞)と地元水分の宮手獅子踊りです。この詳細内容については、後日紹介したいなと思います。


ヤドコ(森口多里著 日本の民俗 岩手より)
屋根の葺き替えや新築のときの「ユイ」は、特にヤドコと呼ばれる。屋根替えのヤドコも新築ヤドコも、部落全員が出て手伝うものとされ、手伝いに出るときは米と葺き草を持って行き、ヤドコ帳に戸主名を記入する。持参する葺き草のオガラ(麻の茎)は一まわし(長さ一丈・約3m)の縄で縛ったものでである。手伝いに出られない家では現金(人夫賃に換算したもの)を包んで届ける。豆腐・煮染・珍しい野菜などを持って行く手伝い人もある。

これらの「貰いもの」は帳面につけておいて、先方の家の葺き替えのときかえす。つまりユイ(結)ッコである。
※ユイとは、集団作業による伝襲的な助け合いのことを言い、ヨイともユイッコとも言う。


ここに出てくる葺き草とは「オガラ」のことを言い、茅葺き屋根葺き替えには必ず使われる貴重な物でした。軒先の一番下にあり雨水が流れ落ちる基礎部分に、「オガラ」を敷きつめてその上に茅(ススキ)を重ねて縄で結束していきます。昔は丈夫な繊維やロープを造るために、何処の家でも大麻を植えていました。大麻の皮をとった中の芯(茎)の部分を貯めておいて、茅葺きの葺き替えの時に皆さんの家から持ち寄ったものです。

現在、大麻は知らないで植えて(こぼれ種で自生も)あっても麻薬取り締まりの対象になりますし、オガラを採る目的で植えることすら出来ない時代です。ですから武田家の場合でも、オガラは使われては居ません。どうしてもオガラが必要となると、解体した茅葺きの家から譲られるしか方法がありません。この方法とて難しいことだと思います。お話をお聞きした方も、痛んでいるし腐るので出来ませんよ・・と話していました。

儀式にて 1・・・挨拶する進行係から今日の予定と屋床について説明がありました。 進行係挨拶・・・
ただ今から、武田家住宅屋根葺き替え作業が終了したことに伴う屋床祝いを行います。屋床と言うのは、紫波地区の従来ありました屋根の葺き替え作業、または葺き替え作業が終わった後に、「ゆいっこ」で参加した人達が夕食を一緒にするという一式を屋床と言っておりました。

今回15年から20年度まで、約5年間かけて曲がり屋の葺き替え作業が終わりましたので、これから約30年曲がり屋を維持する事を目的として、皆さんでお祝いしたいという事で本日の祝いになりました。

屋根の改装作業は今年終了しておりますので、これから20から30年はこのまま持つことになっております。武田家住宅守る会では次に何をするかと協議し、この馬屋の方の土壁を昔のままに作り直そうと言うことで、来年からボランティアをお願いしてみんなで作りたいという予定をしております。

屋根の葺き替え作業の時、皆さんに募金をお願いして50万円ぐらい集まり全額使って頂いております。今度はこの土壁を塗り替えるという事にあたって、土を見つけてこねて間に貼り付けることになります。そうなるとこの費用も結構かかりますので、ボランティアの方々の応援を頂くにしても資金が不足しておりますのでカンパをお願いしたいと思います。

儀式にて 2・・・挨拶する武田家住宅を守る会会長。 武田家住宅を守る会会長挨拶・・・
皆さん遠くから、お忙しいところをお集まり頂いて有り難うございます。この建物は曲がり屋で、岩手県では沢山ありました。

武田家の曲がり屋は、建ててから240年も経っていると言うことは、岩手県でも4、5番以内になっている古い建物で御座います。前の方の窓とかは後から作られたわけで、中の方とかこの馬屋は古いもので御座います。

皆様のおかげさまで、屋根の葺き替えをさせて頂きました。当家の武田さんは大変苦労なさって、沢山の経費がかかったがほとんど武田さんが出費されました。私たち守る会でも周りの環境整備、又葺き替え工事にもお手伝い致しました。

これからこの文化遺産の曲がり屋を保存し、若い人達に分かって頂き、また活用も色々と考えておりますのでご協力をお願い致したいと思います。
儀式にて 3・・・挨拶する武田家当主。

武田家当主挨拶・・・
この南部曲がり屋武田家の後継者として、保存維持に努力している者で御座います。私は長男ではないので、遅くなってからこれを維持したので思うように整備されていないところが御座います。建物自体が古いので、240年前と言うことで家の方は土台が入っています。馬屋の部分については、ちょうな削りの柱がそのまま残っていると言う事で、見学にいらした方から珍しい、梁なんかは不特定な材が使われていると言うようなことで、楽しんで行かれるようで御座います。

もう一つは、周りの庭と言いますか林があるので、何となく癒される気持ちがあると言うことです。私も環境整備をしながら、守る会のご協力を頂きながら頑張っているところで御座います。これからも皆さんのご支援ご協力を頂きながら、後世にこのままで保存維持をしていきたいものだなと考えております。

特にも、子ども等にこういう場所をお見せしたいなと思っています。機会が御座いましたら、子どもさん達を出来るだけ連れてきて頂ければ幸いだなと思います。

私からは、皆さんいらして頂いたので、紅白のお餅を作っていますので、帰りにはおあげしたいなと思っています。今日は皆さんで楽しんでい頂ければ幸いだなと思っています。

儀式にて 4・・・挨拶する紫波町教育長。

紫波町教育長挨拶・・・
皆さんご存じのように、紫波町には南部曲がり屋が多く点在しておりました。私の母親の実家も曲がり屋で、小さい頃実家に行って曲がり屋で生活したのを思い出しております。曲がり屋が改築され時代の流れと共に少なくなってきました。

平成になってから、紫波町では町の文化財という形で指定し、なにがしかの援助をして参りましたが、町財政が厳しくなって予算が思うように付かないでいました。その後、武田家と一緒になって、武田家を守って行こうと言う会が誕生しております。

今日お集まりの皆さんから多大なご援助を頂き、このような素晴らしい屋根の葺き替え、屋床で出来上がったと言うことは、皆さんの力のおかげだなと思っております。ここの家はまだまだ手がかかると思います。

皆さん方のお力を頂きながらこの家を守り、紫波町、岩手県、または日本の財産としてこれから育っていく子ども達に、過去にこういう素晴らしい住宅で地域の方が生活していたんだなあと言う教材にもなると思っています。皆さんのお力を頂きながら、末永く武田家の住宅を守っていければなあと思いながらお礼を申し上げます。



屋床祝いが終わってから家の廻りを廻ってみました。ここで生活している方には迷惑なことですが、自分の家と比較したかったからです。

道路添いには睡蓮の咲く大きなため池が二ヶ所あり、水面に映る風景や曲がり屋がきれいでした。家の南側には大きな池を中心にした庭園があり、庭の中に山から流れて来る小川があります。その小川をまたぐように、屋敷に入るための太鼓橋がありました。これだけでも普通の農家とは格段の違いがあります。家の軒下の長い一本柱、家の中も同様だと思われます。

家の北側や西側は、どこの家でもそうですが一番痛みやすいところになります。昔ながらの土台石の上に土台(基礎材木)がありますが、かなり痛んでいたように見えたし土壁も同様でした。

武田家屋敷の周辺 1・・・家の前には大きなため池が二つあり、今は睡蓮が咲いていました。水面に映る高田家がきれいでした。 武田家屋敷の周辺 2・・・家の西側土台の部分です。壁が土壁なのでかなり傷んできています。失礼と知りつつ撮影しました。
武田家屋敷の周辺 3・・・きれいな庭園があり心が癒されます。皆さんお出でになり見ていました。 武田家屋敷の周辺 4・・・裏庭続きに小川があり、屋敷に入るための太鼓橋があります。


茅軒下の部分 1・・・土間と馬屋の外の部分、昔造りの木戸が見えています。壁は土壁になります。 ここは葺き替えが終わったばかりの馬屋です。昔ながらの造りと土壁ですが、土壁は亀裂が入りはがれ落ちている部分が目立ちます。

馬屋と主屋の交差部に大きな玄関があります。幅が1間(1.8m)の木戸であり、この木戸の中にもう一つ出入りする木戸口があります。
茅軒下の部分 2・・・今回修復した部分でまだきれいでした。

葺き替えが終わったばかりの軒先の部分です。斜めに張り出した長さは90センチぐらいありますが、実際のこの部分で敷き詰めた茅の厚さは30センチ位とのことです。
茅も支える板も新しい物でした。

茅軒下の部分 3・・・以前に修復した部分の様子。 土壁のはがれ落ちた部分と、以前に修復した葺き替えの部分を見ると、前の使える材料を使用していることが分かります。縄の色から新しい部分と時間が経過した部分とが分かります。縄だけでなく、ビニール紐も使われています。
茅軒下の部分 4・・・中二階の明かり取りのために大きく茅が切り取られています。 正面に見える主屋と、中二階部分への明かり取りのために屋根が切り取られています。この切り込みのことを「キリヤ」と言います。

この切り通しの部分がすごく調和が取れていますが、このような切り取り部分(キリヤ)を造るには家がそれなりの大きさがないと造られません。


ここは馬屋ですが、馬が居なくなってからコンクリートを敷き豚を飼っていたと言います。この溝が排水や汚水を流す溝ですが、養豚は今はここではやっていません。家の周りに畜舎があり、豚小屋になっていました。

由緒ある武田家には見学に来られる方が多いと言います。休憩場になっているのが現在の馬屋です。トイレ表示もありましたし、吸い殻入れもありました。

大きな馬屋ですから、天井の木組みも大きな木が組まれています。
馬屋の様子 1・・・右端に稲はせ用の杉の長木が入っています。
馬屋の様子 2・・・以前の馬屋の土間はコンクリート張られ、豚の飼育をしていたと言います。今は見学者の資料室になっていました。 馬屋の様子 3・・・頑丈な木組みで組まれています。柱の表面をよく見ると「ちょうな」で削った部分が分かります。

馬屋の奥は台所と庭になります。今は仕切られていますが、当時は炊事煮炊きの竈が沢山あったと思われます。その煙が天井に昇り、茅葺き屋根の煙出し部分から出て行きます。ちょうど薫製のようになり、天井裏の茅や結束している縄が腐食しない様になります。

土間から木戸口越しに見た外の風景です。じっくりとご覧になると、暗い中にも造りが見えてきます。

240年間の生活の証で、天井部分は煤と油煙で燻されていきます。

最後の画像は庭の様子で、昔ながらの土間になっています。我が家にもありましたが、かなり以前にコンクリートで埋めました。
土間の様子 1・・・武田家の正式な入り口になる大木戸と土間から外を見た様子。
土間の様子 2・・・ここで煮炊きした竈の煙が天井に昇っていきます。240年の歴史を感じさせる煤と油煙ですよ・・。 土間の様子 3・・・昔ながらの粘土を固めた土間の部分です。微妙な高低があります。


何故か茅葺きにひかれる今の私です。水沢区にある正法寺の日本一の茅葺き屋根修理にも見学に行きました。屋根裏などと言うものではなく、巨大な工事現場のような印象が残っています。我が家の場合は雨漏りがひどくなり、自分で差し茅の真似事をしたり、天井裏の梁に登ってタライを置いたりしたこともあります。厚いはずの茅が抜けて無くなり、上を見上げると茅の隙間から空が見えます。そうなったら茅葺きの屋根は悲劇です。

私が居る部屋は、基本的には茅葺き屋根と言うことになります。基本的にはと書いたのは、築110年の我が家ですが雨漏りがひどくなり、茅葺きの補修等が無理になりトタンで茅葺き屋根全体を覆っているからです。子どもの頃の屋根の葺き替えは、集落の皆さんによる共同作業(ユイッコ)でした。完成したときは、高いところから餅撒きをした記憶があります。

しばらく空き家にしていた我が家でした。ここで実際に生活するようになって35年経過しますが、何回か部分葺き替えをしています。私にとって、茅葺き屋根の生活は忘れられない思い出の一つになっています。この記事を書きながら、遠野市にある千葉家(日本十大農家の一つ)の茅葺き住宅にいつか訪れてみたいなと思っています。