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         広島市・平和記念公園



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当時の姿そのままの原爆ドームです。負の世界遺産という言葉を初めて知りました。

2007年6月、グループの旅行で広島、山口方面を訪れました。仙台空港から広島空港まで飛び、最初に訪れたのが呉市にある「大和ミュージアム」です。私にとって念願であった、十分の一スケールで再現された「戦艦大和」の見学でした。その後広島市に向かい、世界遺産でもある原爆ドームのある広島市平和記念公園を訪れました。

この地を訪れたのは昭和57年でしたからあれから25年目の訪問になります。25年前のたたずまいと大きな変化がなかったのですが、「原爆の子の像」周辺はきれいに整備されていました。以前は中央にある像の周辺に無数の千羽鶴が吊されていただけでした。


世界遺産と言いますと、平泉町では世界文化遺産への本登録を目指している「平泉の文化遺産」の取り組みがあげられます。もっとも重要な部分は「コアゾーン(拠点地区)」と呼ばれ、「中尊寺金色堂ほかの建造物六件」、「毛越寺跡ほかの史跡九ヶ所、名勝二ヶ所」などが中心となっています。世界遺産登録について、その基準がよく分からなかったので調べてみました。

世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然など、人類が共有すべき普遍的な価値をもつものを指す。登録基準として、文化遺産、自然遺産、複合遺産、そして負の世界遺産があげられる。

負の世界遺産・・・戦争や人種差別など人類の犯した罪を証明するような物件も世界遺産に登録されている。明確な定義付けがされているわけではないが、これらは別名負の世界遺産と呼ばれている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、原爆ドーム、トリニダード、奴隷貿易の拠点であったゴレ島、マンデラ大統領が幽閉された島ロベン島などである。また、タリバン政権によって破壊されたバーミヤン遺跡も負の遺産と見なされている。

この原爆ドームは、負の遺産と言うことで、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996年(平成8)12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。(※ウイキペディアより)

なお、以下の解説文は現地にある説明板の記載を参考にしました。



きれいに整備された公園と堤防です。堤防の斜面の色が変化していますが、河口に近いせいもあり干満の水位の変化が見られます。この時は干潮時でした。

この原爆ドームに沿った川にも、火傷の熱さや原爆による急性障害の苦しみに耐えかねておおぜいの人びとが飛び込み、水死しました。かつては産業奨励館として華麗な容姿を誇ったドームは、いま、悲劇のシンボルとして元安川河畔に永久に保存されることになっています。
原爆ドーム(広島県産業奨励館) 1・・・ドームと川面に写った影の対比。 原爆ドーム(広島県産業奨励館)・・・
この建物は、チェコの建築家ヤン・レツル設計監督により1915(大正4年)4月に完成し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。

原爆は、この建物の南東約160mの上空約580mでさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。

風がほとんど無く、流れに写ったドームの姿がもの凄く印象的でした。
原爆ドーム(広島県産業奨励館) 2 原爆ドーム(広島県産業奨励館) 3・・・川面に映った原爆ドーム。
原爆ドーム(広島県産業奨励館) 4 原爆ドームを川越しに見る場所に立てられた、被災前の産業奨励館の写真です。


原爆の子の像・・・
この像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが、10年後に白血病で亡くなったことをきっかけに、同級生達が、「原爆で亡くなったすべての子供達のために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ、全国の3200余りの学校や世界9カ国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成したものです。

像の高さは9mで、その頂上には折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面には少年と少女の二体の像が配されています。

像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです  これは私たちの祈りです  世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られています。この鐘と金色の鶴は、2003年に複製されたものです。

原爆の子の像 1・・・千羽鶴を吊す場所がガラスで囲われてあります。 原爆の子の像 2・・・像の前回です。中に鐘があるのですがはっきりしません。
原爆の子の像 3・・・正面から見上げたもの。 原爆の子の像 4・・・左横から見上げたもの
感想を発表する子ども達。 市内の小学校の子ども達でしょうか・・。「原爆の子の像」の前でなにやら発表をしていました。思わず聞き入った私です。グループの学習で学んだことや感想を述べていました。

子ども達の感想を大切にしなくてはと思いました。見ていて嬉しくなってきましたね・・。


原爆死没者慰霊碑・・・
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、はにわの家型をしている。碑には、「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。石室には、国内外問わず亡くなった原爆被爆者の名簿が納められている。

丹下健三が設計したもので、平和記念資料館、原爆ドームを結ぶ線上に配置されている。
原爆死没者慰霊碑 1・・・資料館をバックに。 原爆死没者慰霊碑 2・・・左斜め前から。
原爆死没者慰霊碑 3・・・正面から、奥に原爆ドームが見えています。 原爆死没者慰霊碑 4・・・石碑に刻まれた文字が分かります。


原爆供養塔・・・
世界最初の原子爆弾の投下(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨をここに納める。爆心地に近いこの地では、多数の遺体が収容され、火葬が行われた。

昭和21年1月広島県戦災供養会が創立され、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立された。昭和30年7月被爆10周年を期して、広島市が中心となって地下に納骨堂を有する現供養塔が建立され、各所に散在していた遺骨をここに納めた。毎年8月6日を中心に、広島戦災供養会を始め、広島県宗教連盟及び各宗派による慰霊行事が行われている。  広島戦災供養会

原爆供養塔 1 原爆供塔 2


平和の鐘・・・
この梵鐘、鐘堂は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。

この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財結晶させてつくりました。この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人ひとりの心にしみわたらせることを願っております。この趣旨、目的をご理解の上、平和への願いをこめておつき下さい。   昭和39年9月20日 建之  広島悲願の会

平和の鐘 平和祈念像


平和記念資料館・・・
しばらくぶりに訪れた資料館です。平日の夕方近くでしたので参観者は多くなかったのですが、気のせいか私達の周囲は外国人参観者が多かったと思います。内部には、被爆直後の様子をうかがえる多くの資料等が保存展示されています。じっくり見て当時の様子を想い浮かべると、涙無くしては見られませんし、ましてや撮影するという気持ちにはなれません。
思わず引き込まれる爆発時の模型です。

爆心地の模型
この模型は、爆心地から2.75kmまでの被害の様子を示しています。原爆は地上600mで爆発し、同時に火球を生じました。赤い玉は、1秒後の火球(直径280m)を示しています。

原爆は、大量の放射線を瞬時に放出し、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。放射線は、人体に深刻な障害を与え、爆発による初期放射線で、爆心地から約1km以内の屋外にいた人の多くは、数日のうちに亡くなりました。

かろうじて生き残った人々にも、その後、白血病やガンなどの発生率が高く、今なお、被爆者の健康をむしばんでいます。

被爆直後の広島市の様子、あえて白黒画像で表現してあります。 瓦礫となったコンクリートの建物 1
瓦礫となったコンクリートの建物 2・・・破壊された産業奨励館周辺 瓦礫となったコンクリートの建物 3・・・破壊された産業奨励館。
火傷と負傷にあえぐ被爆者
8月6日五山11時頃撮影。爆心地から2270m地域にて
被爆当日の被爆者の状況を撮影した貴重な写真です。
火傷と負傷にあえぐ被爆者 1
火傷と負傷にあえぐ被爆者 2 ページを作成するにあたり、どのカテゴリーに入れようかと悩んだのですが、広島平和記念公園を風景の一部と見なし、戦争の悲劇等については深く追求しないようにしました。

平和への思いと願い、これは日本人のみならず、地球上に生きる人類の永遠の願いでもあり、人が人として共に生きていくために、絶対に忘れてはならない課題である。