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           岩国市・錦帯橋


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岩国市のシンボルにもなっている錦帯橋です。右端にも一連あるのですが写りませんでした。

日本三名橋の一つに数えられている木造橋で、城下町岩国のシンボルとして知られている。精巧かつ独創的で強靱な五連のアーチで構成されていて、1922年(大正11年)に国の名勝に指定された。

初代の橋は1673(延宝元年)年、当時の岩国藩主吉川広嘉の創案によって造られた。現在の橋は2004年3月、50年ぶりのかけ替え孝治が完了した3代目。河原からは、釘をほとんど使わない伝統の建築技法「組み木の技法」を見ることが出来る。桜が華やかな春、鮎釣り人で賑わう夏、紅葉の美しい秋、静寂に包まれる冬など四季折々の風情が楽しめる。(※マップルマガジンより)

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.8m、幅員5.0mで、継手や仕口といった組木の技術によって造られている。(※頂いた資料から)


トップの画像は駐車場から撮影しましたが、かなり離れた場所から撮影するか、超広角レンズでないと五連の橋の様子が収まりません。対岸の部分を入れると、こちらのアーチが入りませんでした。

歴史・・・1
初代岩国藩主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していた。3代藩主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない刎橋である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30mの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200mもあるため、同様の刎橋とするのは困難であった。

広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。(※ウイキペディアより)



きれいな清流の錦川、河川敷の中に駐車場があり、橋の根元付近は整然とした石畳が敷きつめられています。洪水になっても、川の石が流されることがないのでしょう。

駐車場付近は普通の河原と同じでした。入り口付近の河原からアーチを撮影してみました。中程に架かる三つのアーチが急傾斜で、一段一段が幅広い階段状です。

対岸には吉香公園と、山の高いところに吉川氏の山城である岩国城(1962再建)が見えています。時間の関係でここまでは行けませんでした。
錦帯橋 1・・入り口から対岸を見たのですが、四連しか見えません。
錦帯橋 2・・入り口側のアーチですが、結構登りがきついことがわかります。 錦帯橋 3・・入り口側の第一アーチです。


歴史・・・2
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、二百七十六年間に渉り、流されずにその姿を保った。

1950年(昭和25年)9月に発生したキリア台風により、錦帯橋は流失してしまうが、1953年(昭和28年)に再建。2001年(平成13年)より2004年(平成16年)にかけて橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。

2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて、九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に復旧工事が行われ今に至る。(※ウイキペディアより)

ガイドさんからも言われましたが、橋の構造を見たかったら真下から見て下さい・・・、と言うことで真下から見上げてみました。資料によると、アーチの木造部分は釘をほとんど使わず巻き金鎹(かすがい)で組んでいます。「組み木の技法」と呼ばれる建築方法で、抜群の強度があると言います。以前に聞いたことに、木組みの一部を抜くと橋が解体するとありますが、本当なのでしょうか・・。

下から見上げた様子は、橋と言うよりも神社等の細工のように見えますね。

橋の真下の様子。 縦位置で構造がわかるようにしました。


川の東側に切符売り場があり、入橋券として300円払いました。渡ったら戻ってこなければなりませんから、往復料金と言うことになります。

天気に恵まれ暑いくらいの日差しです。平らな面でなく、歩幅に合いませんが幅広い階段状になっています。板の端を気をつけてみると、鉄製の楔(くさび)の金具でがっちりと固定されていました。

それにしても橋からの眺めは素晴らしく、下を流れる錦川の澄み切った水がきれいでした。よく見ると魚が泳いでいます。鮎釣りの船が見えていますが、釣れているのかなあと思いました。
アーチの高いところから前方を見ます。
アーチの頂上の手前から歩く床板を見ます。階段状になったいます。 錦川の上流です。鮎釣りの船が錨で固定されています。のどかな、そしてこの橋との対比が何とも言われません。
錦川の下流です。河川敷が大きな駐車場になっています。砂利に車を置くしきりが付けられていました。 吉香公園側から登った第一のアーチから対岸を見ました。


橋を渡ったところに、斜めに川にせり出している松の木があります。立て札には「槍倒し松」と書かれてありますが、説明板には「槍こかし松」とあります。説明文を読んでなるほどなあと納得でした。

槍倒し松・・・この松は、岩国武士の負けず嫌いをまけず表徴する有名な槍倒し松です。

昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは、行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国藩の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝の張った松の木をわざと橋の頭に植え、大藩と言えどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。

今では昭和10年の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが、元は河辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから、大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたと言うことです。

昭和19年(1944年)頃、この地方に発生した松食い虫によって、この松も昭和27年(1952年)八月残念ながら枯れてしまいました。この松は、初代の松の実から自生した直系の松を昭和43年(1968年)二月十五日三代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。樹齢300年、高さ14.5m。(※案内看板から)

橋を渡ると吉香公園になります。ここには天然記念物に指定されている白蛇の飼育場があり、蛇好きの私はがっちりと様子を見て撮影してきました。

河原から見た槍倒しの松 道路から見た槍倒しの松と橋の入り口。

吉香公園側の橋の入り口になります。中央の三連のアーチに比べると、緩やかなアーチになっています。それほど気にしないで歩くことができました。

それにしても1673年に築かれた初代の橋、およそ330年ほど前のことになります。コンクリートなどのない昔のことですが、毎年洪水で流されないように工夫し、この橋を築いた当時の職人達の技術に凄いなあと驚きます。

橋桁の石組み等、側に行って撮影すれば良かったなあと思いました。ネットで調べたら、一部の木組みを抜くと倒壊するという話は、どうやらあり得ないようです・・。

吉香公園側の橋の入り口