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慈覚大師の開創による蚶満寺は、西行法師、北条時頼、松尾芭蕉など多くの歴史上の人物が訪れた場所でもあり、当時の俳人や文人墨客のあこがれの地でもあったようです。「奥の細道」の中で、松尾芭蕉は当時の象潟を次のように紹介しています。

・・・能因島に船をよせて・・・寺を干満珠寺といふ・・・此の寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて 南に鳥海天をささえ 其の陰映りて江にあり・・・江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松嶋にかよいて又異なり 松嶋は笑ふが如く象潟は怨むがごとし 寂しさに悲しみを加えて地勢魂をなやますに似たり。・・・象潟や雨に西施が合歓の花・・・汐越しや鶴脛ぬれて海涼し・・・の句を読んでいる。・・・ (※宇佐美龍夫著 大地震・・古記録に学ぶ・・から)

文化元年(1804)6月4日の午後10時頃、象潟地震(推定M7.1)が発生。この風光明媚な象潟は一夜にして2m程隆起し陸地になり、液状化現象のために砂や泥を吹きだし、干満珠寺は屋根を残して砂の中に埋まったと言います。当時の小島は丘陵地帯になってしまいます。

ここ蚶満寺一帯も陸地になり、周囲の潟湖の一部が池となって残っています。寺の境内入り口から散歩コースが造られていて、ゆっくりと見て歩くことが出来ます。

R7からJR羽越本線踏切を過ぎると見えてくる蚶満寺入り口。 蚶満寺敷地の奥の細道散策路入り口。

芭蕉の詠んだ句に出てくる西施の絵が彫られた石碑がありました。残念なことですが、私は中国四大美人である西施の名を知りませんでした。

西施(せいし)・・・中国四大美人の一人  紀元前502〜470頃没

中国の春秋末期時代、越国の人。呉・越の両国は「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれた。越王、匂践が会稽で敗れると美女西施を呉王に献じ、呉王の心を乱し、政治を怠らせる施策を立てた。西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。

後、呉国が滅び会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神の具えた天下第一の美女として讃え、現在まで知られている。   (※説明碑文から)

西施の絵が彫られた石碑

救国のためとはいえ、敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。その句が「奥の細道」に見られる次の句である。
   「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
  
この句が縁で、象潟町は平成2年から西施の故郷中国西施の故郷中国浙江省諸曁(しょき)市と友好関係を結んでいます。


おなじみの松尾芭蕉行脚時の姿です。周囲に池がありますが、当時の潟湖が取り残されたものでしょうか・・・。凄く雰囲気を感じる散策路でした。
松尾芭蕉の銅像・・・周囲の景観にマッチしています。 銅像の前にある池ですが、当時の潟湖の部分でしょうか・・。


散策路から出ると、目の前に多くの小島が迫ってきます。一番近いところの丘に登ってみました。太い松が何本も生えていて、田んぼからは3m位の高さがあり「駒留島」の名が付いていました。驚いたのは頂上に墓碑があったことです。○○家累代の墓と書かれ、周囲には何基か墓石が立っています。他家の墓地ですから長居は出来ないと、早々に降りてきました。

後ほど寺の管理人にお聞きしたら、墓石のあるのはそこだけですよとの事です。田んぼの中にある丘陵(以前の島)は、田んぼと共に所有者があると言うことでした。この4コマの画像は駒留島から眺めたものです。

散策路から見た駒留島 1・・・たんぼ道を歩いて見ました。 散策路から見た駒留島 2・・・別の角度からです。
駒留島から見た周囲の様子 1・・・ここが墓地とは知りませんでした。 駒留島から見た周囲の様子 2

蚶満寺に戻りながら周囲を見ると、九十九島の名の通り大小様々の丘陵が見えてきます。田んぼから見た角度ですからはっきりとはしませんが、田圃に水が張ってあればきれいだろうなと言う想いが生じます。
田圃から見た九十九島だった丘陵 1 田圃から見た九十九島だった丘陵 1
田圃から見た九十九島だった丘陵 3 田圃から見た九十九島だった丘陵 4


蚶満寺につながる山門への通路です。近くで見た山門は、凄く年代を感じさせる造りであり扁額の文字がやっと読めるくらいでした。木彫りの造作物が沢山あり、入り口の両側には阿吽の仁王様が祀られています。木の格子ががっちりあり、内部の様子は撮影できません。

この山門は、象潟地震の液状化現象で埋まらなかったのかなと思いました。
蚶満寺山門への通路 蚶満寺山門正面
蚶満寺山門扁額・・・文字が見えません。 境内側から見た蚶満寺山門・・・仁王様が祀られている格子が見えます。

境内の入り口に受付があり、拝観料を払い(300円)中に入りました。参拝客は私一人ですが、静かな中に一際大きな芭蕉が目をひきました。松尾芭蕉の関わりでしょうから、後世になって植えられたものと思います。本堂には入りませんが遠くから撮影したのみでした。古さを感じる山門と比べて、比較的新しいのかなと思いました。

境内には苔むした地蔵さんや巨木が沢山あり、歴史の重みを感じます。それと、ノラネコの姿が大変多いのです。しかも人の姿など気にしないで寝そべっています。管理人の方は笑いながら、「近所の人がここに置いていくの・・」と話しておられました。

境内の裏には、船で通っていた当時の場所が保存されているとのことです。何も資料が無いまま見ていたので、家に来てから気がつくお粗末でした。お寺以外の場所とて同様でした。春に訪れたときにでも、改めて散策しなくてはと思います。

最後になりますが、象潟地震についての詳細は「宇佐美龍夫著 大地震・・古記録に学ぶ」「象潟町郷土資料館編集景勝地象潟と地震・・象潟地震から200年・・」の記事を参考にしました。

2008年5月上旬のことでしたが、念願でえあった田んぼに水を張った状態の九十九島を見てきました。まずまずの天候であり、私なりに満足できた鳥海山や水面に映る九十九島の様子を撮影できました。2008象潟・水鏡の九十九島としてまとめてあります。よろしかったらこちらからご覧下さい。
蚶満寺本堂 蚶満寺境内にある芭蕉。
蚶満寺境内の様子 1 蚶満寺境内の様子 2
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