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         秋田象潟・九十九島



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松島の景観と並び称された当時の象潟を再現した模型です。
11月中旬のことでしたが、以前から訪れたいと思っていた秋田県にかほ市にある象潟に行ってきました。かなり以前にR7号線を走り酒田方面に行きましたが、象潟は全くの通過状態で詳しいことは分かりませんでした。江刺の家からさほど遠くはないのですが、奥羽山脈を横断し日本海側に出るのはちょっぴり大変でもあったからです。

象潟は200年ほど前まで、松島と比較されるくらいの風光明媚な場所でもありました。俳人松尾芭蕉を始めとする多くの有名人が訪れた景勝地でしたが、文化元年(1804)の象潟地震で一夜にして海底が隆起し陸地となった場所でもあります。

上の模型は当時の象潟を再現したもので、にかほ市象潟郷土資料館に展示されているものです。象潟地震の資料を見ると、当時の象潟は遠浅の汽水湖であり、せいぜい2m位の水深だったようです。松尾芭蕉も船に乗り小島を探索しながら、その時の様子を俳句等に表したものと思われます。


道の駅「象潟ねむの丘」・・・売店や展望台が人気スポッとでした。

にかほ市象潟海岸に立つ道の駅「象潟ねむの丘」です。初めて訪れた場所ですが、展望台から見下ろした日本海と鳥海山の麓に拡がる九十九島が圧巻でした。



展望台からは360度の視野が開けており、厚いガラス越しになりますが撮影ポイントになるところです。天気の良い日の日没は最高のようですが、時間の関係で見ることが出来ませんでした。
夕日展望所・・・きれいな日本海でした。 岩城・秋田方面を望みます。片寄せ波がきれいでした。

東側の景観は、雄大な鳥海山の麓に拡がるかつての九十九島の様子が思い起こされます。200年前には松島と並び称される景観だったとは、今にして自然の猛威と言いますか、地震で一夜にして隆起して陸地になったとは信じられません。

鳥海山の頂上付近の様子から、2500年前にあった山体崩落の部分が伺われます。崩落した岩石等が海に流れ込み、その後海水の浸食作用により小島となったのですから驚くばかりの自然の力です。展望台には、郷土資料館では撮影禁止になっている「象潟古景図屏風」パネルの展示がありました。

かつての象潟は無数の小島が浮かぶ「潟湖」でした。古くから松島と並ぶ名勝の地として知られ、多くの文人墨客が競うように訪れております。とりわけ松尾芭蕉の「奥の細道」最北の地で、象潟の下りに眼前の風景を力を込めて描写しております。

1804年(文化元年)、惜しくも地震で潟湖はそっくり隆起し現在の風景となりましたが、今でも水を張った田植え前後の数日間はかつての面影をしのぶことができます。「潟湖」跡は昭和9年に天然記念物「象潟」の指定を受けました。ここ「ねむの丘」はその真正面に位置しております。   (※道の駅の説明板から)

展望台から見た九十九島遠望 1・・・この付近は遠浅の潟湖だったと言います。
鳥海山山頂の崩落部が見えています。
象潟古景図屏風のパネルから。 見た九十九島遠望 2・・・松の木が生えている小島だった丘陵。

ふるさと切手記念碑

道の駅の前にあるふるさと切手記念碑です。

象潟「九十九島」・秋田県

建立趣意・・・それぞれのふるさとで大切にしている風景などから、郵政省の十二年ふるさと切手シリーズにおいて象潟「九十九島」が選定された。

この栄誉を記念し、後生に伝えるため切手発行日にこの碑を建立する。  平成12年7月7日  象潟町



象潟の事について詳しく知りたくなり、にかほ市象潟郷土資料館を訪れました。シーズンオフなのか訪問者は私一人でした。係の方に象潟の地震等のことを知りたい旨を伝えたら、景勝地「象潟」と地震・・象潟地震から200年・・と言う資料を頂きました。撮影も一部制限がありましたが、自由ですと言われじっくりと見学する事が出来ました。

復元した象潟の成立過程
  1.2500年以前・・・2500年以前の象潟は海だった。
  2.2500年前・・・・・約2500年前に鳥海山が崩壊して、海に土砂が流れ込み、たくさん島がある風景ができあがっ
              た。
  3.象潟の成立〜1804
    砂州ができ淡水と海水の混ざった汽水湖、すなわち象潟湖ができあがった。象潟図屏風はこのときの情景をも
    とに描かれている。
  4.現在・・・・・・・・・・1804年の象潟地震によりこの地域は2m隆起し、象潟湖は消滅した。

    (※館内の説明図版から)

埋もれ木と年輪年代測定法・・・
  九十九島の原形、現にかほ市の地形をつくった鳥海山の噴火は縄文晩期の紀元前466年で、季節は秋から冬に
  かけてであることが判明した。

  市内の冬師地区から出土したスギの埋もれ木を、奈良国立文化研究所埋蔵文化財センター発掘技術研究室の光
  谷拓実室長が年輪年代測定法で分析してわかったもので、古文書などの記録に残されていない火山噴火の年代が
  判明したのは国内で初めてである。       (※説明資料から)

埋もれ木 1 埋もれ木 2 貝殻の見える堆積物。

館内にある象潟模型
この模型は、1804年に地震に伴う土地の隆起によって消え去った象潟を復元したものです。隆起前の象潟は古絵図や古文書に記録されていますので、復元にあたってはそれらを参考にしました。また、最近になって進んできた潟湖の地形や地質・潟にすんでいた生物などの研究成果も取り入れました。

  象潟の概要
  ・大きさ:南北約2km、東西約1km。
  ・深さ:深いところでも2m以内。
  ・水の塩分:海水よりやや少なめ。
  ・海とのつながり:現在の象潟川の河口付近。
  ・すんでいた動物:貝やおそらく魚など。

象潟地震以前の風光明媚な象潟は、多くの島があることから九十九島と呼ばれていたのでしょうか・・。同じ名称ですが、島原市雲仙岳付近の海岸に九十九島という小島があります。以前訪れたことがありますが、松島海岸の小島のように風光明媚な場所になっています。この小島も、雲仙岳前山の東半分が爆発し、山体が海中に落ちて生じたものです。

象潟・九十九島全景。 神社のようです。
これが芭蕉の訪れた蚶満寺かなと思います。 小島が浮かぶ潟湖の様子

郷土資料館には、昔からの生活の様子が資料と共に残されており、当時の生活の一端を知ることができました。興味をもったのが船絵馬でした。今まで見てきた絵馬は、文字通り馬に託して奉納されたものでしが解説を読んでみてなるほどと納得しました。船絵馬の他にも、当時使用されていた北前船の模型が沢山あり、航海の安全祈願や大漁祈願の願いが伝わってきます。

船絵馬・・・
船絵馬は古四王神社など、15の神社に129点保存されている。船主や船頭が持ち船の船員の海上安全を祈願して奉納したものである。

絵馬とは、神に願い事をする際、本来なら神の乗り物である「生き馬」を寄進すべきところ、庶民にはそれがなかなかできかねるので、代わりに馬の絵を板に描いて奉納したことに始まるとされる。したがって絵馬といっても、画題は必ずしも馬でなくてもよいわけで、航海の安全や豊漁を祈願したものは、ほとんど例外なく船の絵である。

船体が貧弱で、航海術も発達していなかったころ、板子一枚下は文字通り地獄だった。江戸中期から明治半ばまで、日本海西回り海運の主役として活躍した北前船といえども、利益と危険は常に紙一重で共存してわけで、それだけに神仏にすがる気持ちが強かったものと思われる。

船絵馬 1 船絵馬 2
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