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現場説明会の最後は、発掘調査が進められている現場でした。この現場は平成18年から19年にかけて、発掘調査と分布調査の二本立てで行っていると言います。頂いた資料によりますと、調査経緯と目的について以下のように書かれてあります。 釜石市橋野高炉跡地内においては、近年、周辺を取り巻く国有林においてスギの伐採作業が進んでいます。また、近代製鐵発祥から約150年を経ている事から高炉石組みや水路、御日払所の石垣の保存が難しくなっています。 このため史跡を保護していくため、近代製鉄発祥150周年そして橋野高炉跡国指定50周年にあたる今年度を目標に、保存管理計画を策定することとしています。・・・以下省略。 最初の画像は発掘現場全体の様子です。私たちは入られないと思い周辺で見ていたら、「中に入って良いですよ」とのことで現場に入ってみました。 |
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種焼竃跡・・・砕きやすくするとともに、硫黄分等をとり除き精錬しやすくするため鉄鉱石を焼いた竃のあった場所。
今回の調査で一番見たいのは、絵図で見る種焼竈という部分です。大体三つぐらいですが。ここには四つ並んでいます。ここは開発のための発掘調査でないので、基本的には残すための発掘で再現できるように残してあります。埋め戻しの時も区別できるようにします。 現場穴の下の方が結構焼けています。絵図にはがつがつ割っている様子がありますが、ここで一回熱してそれを出して割るという形になります。それが種焼き窯です。割るときの土台は石だと思います。 釜石の鉄鉱石は、磁鉄鉱を使っていたのではと言われますが、磁鉄鉱でなく砂鉄状になった鉄粉を使っていると思われます。この辺残部は花崗岩ですが、この黒い部分(鉄)が食い込んでいます。白い部分が花崗岩で銀色になっているのが鉄です。このように食い込んでいる部分と鉄だけの部分がありますが、その鉄だけの部分を取り出して種焼き場に持っていった。そのための第一工程だと思います。 |
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上に乗っている石は、採掘場から来た鉄を抜いた分の石で、いらなくなったので上に堆積しています。 |
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種焼竃跡の底の部分ですが、何層にもなっていて色が違っています。 下の方にある赤いのが焼土(焼け土)、その間にある黒いのが炭です。さらにしたに焼土、というように二回使っています。ここにある四つともそういう形になっています。 |
もう一つの遺構があります。これは溝で、あっちの流水口まで続いています。私は生まれて初めて遺構をタガネで掘りました。この断面は残部の炉滓で、すごく堅いのです。発掘の皆さんに苦労をかけてタガネで削ってもらいました。 ここはどのように堆積したかわからないのです。ただ流れているだろう、流しているだろうと・・、下の方も結構焼けています。たぶん高炉の時に流した跡だろうと考えられます。これがずーっと向こう側までのびています。もしかしたら三番高炉と関係があるだろうとなっています。 |
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発掘現場からは、いろいろな出土品が出ていました。小さいものや貴重なものはビニール袋に入っていたので撮影は困難でした。資料から紹介してみます。 出土遺物は、鉄銭・銭竿・釘・耐火煉瓦・餅鉄(鉄瓶の注ぎ口?)などがあります。鉄銭は橋野銭で作った可能性が高いです。煉瓦には荒い格子目が刻まれるものが多くありますが、接着のための漆喰やシャモット粉がつきやすくするためではと(?)と考えられます。 |
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現職時代の若い頃、グループの教材研究会で鉄の話になり磁鉄鉱が話題になりました。帆船時代の昔、方位を観測するには磁針が必要なのですが、その原材料になったのが磁鉄鉱だと言われます。グループのある方が、大量に磁鉄鉱の塊を入手し販売されました。その時の磁鉄鉱を暫くぶりに眺めてみました。 |
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