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           C58283 後日談


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岩手船越駅のSLをHPで公開したところ、掲示板に書き込まれた一文が私の心を大きく揺れ動かしました。以下、きっちゃんの書き込み文章から抜粋して紹介いたします。

船越のSLの写真を見て、車番がいくつなのか気になって画像加工ソフトでいじりまわしてみました。なんとか読み取れる番号は、C58283でした。世の中ではSLといえばD51なのに対して、自分の中ではC58が先に出てくるだけなのです。そして、わずかな期待を込めて、気になった可能性を求めて調べてみたくなったのです。

その可能性というのは、SLと聞いた時にC58が真っ先に出てくることの理由の中にあります。小学校低学年だったころ、近所のおじさんが珍しい話を聞かせてくれるというので、そこの家にお邪魔したことがありました。そこの家の床の間には、SLの車番プレートがかざってありました。このおじさんは若かったときにSLを運転していて大事故に遭い、大怪我をしながらも無事だった凄い人。そのSLは「しごはち」なんだ。この凄いおじさんは「まえたさん」ということでした。

その後、聞いた話の中身を徐々に理解し始めて「しごはち」はC58。「まえたさん」は前田さん。事故の詳細は映画で復習、と。実は、ものすごい体験談を生で聞くという機会に恵まれていたものだと思い知ったのです。 写真のC58は同じ山田線を走るSLです。事故にあったC58がその後 どうなったのかなんて知りもしませんでしたが、修理されて復活しているのであればと、またしても勝手な希望を持ってしまったのです。


掲示板に書かれた内容は、私の心を大きく動かしました。何気なく写した五枚の画像が、とんでもない歴史を刻み込んだSLである可能性があり、考えれば考えるほど私の心が揺れ動きました。また、映画のドラマになった主人公が宮古の方とは知らなかったのですが、大いなる旅路の映画はどこかで聞いたことがあったからです。

早速Jinさんのサイトを訪れ、宮古の歴史を開いてみました。その中にあった昭和19年(1944)3月の山田線での列車転落事故の記事には思わず絶句です。戦時中のことでもあり、今と違っての制限ある情報公開(あるいは無かった可能性も)だったと思われます。

事故当時、C58283の機関助手であった前田さんの行為が話題を呼び、1960年映画「大いなる旅路」が作成されました。そして機関助手前田さんを顕彰するために、1972年宮古駅前に《超我の碑》を建立した・・・とありました。


さて、私ごとですが、撮影したSLの車番が本当にC58283なのか疑問になり、原画であるフィルムからの画像を拡大して調べてみました。うーん、283は良いのだがC58がどうもC55に見えるのです。それで、ネット検索でC55とC58の諸元と製造台数等を調べてみました。

C55は、1935年から1937年までの間に62両が製造された。C58は、1938年に地方ローカル線用として登場、中型万能機として旅客・貨物の牽引に活躍し製造終了までに427両が造られた・・・とのことでした。

私が撮影したSLの車番ですが、拡大すると数字の二桁目が5に見えます。しかし一桁目の5とは明らかに違いますし、四桁目の8に似ています。

超我の碑につけられている本物の車番プレートです。

以上のデータから判断すると、C55283はあり得ないことになります。勝手な判断ですが、私が撮影したSLはC58283であると確信し、この記事を書く事にしました。そうなると、なんとしても超我の碑を見て撮影したくなり、宮古駅前まで行きました。



                        画像をクリックすると大きな画面でご覧になれます

昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸、川内間で雪崩に逢い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当った。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は已に尊い生命は奪われていたという。正にこの行為は超我と友愛の精神によるものであり、我々の理想とする処でもある。よってそのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えようとするものである。
超我の碑の碑文は、当時の鉄道建設審議会長である鈴木善幸さん(岩手県山田町出身)の揮毫によるものでした。

また建立は1972年11月、宮古ロータリークラブとなっています。

きっちゃんのまとめの文章です。

事故に遭ったC58283は、おそらく現存していないです。前田さんの家の床の間に飾られていた車番プレートは、解体されて取り外されたものの一つなのだと思います。また、別のプレートの一つは、宮古駅前にある記念碑についているものだと思います。

一枚の写真が語る秘められた事実、風景の一部として見ていた石碑の語る秘められた事実・・。各地に多くの石碑が建てられて居ますが、その建立には人々の篤い想いと願いがこもっていることを知らされました。改めて、きっちゃんに感謝いたします。

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