◎ワカメの口開け
当時のワカメの口開けは、決められた時間内に家族総出で行います。磯の岩場に生えているワカメを刈り取り、
刈り取ったワカメはすぐ船で運び、その日の内に乾燥させるため砂浜に並べて乾します。いつもは白い砂浜が、
見渡す限りワカメのカーペットになり見事なものでした。
◎四十年前の浦の浜
船越という地名は、秋田県男鹿半島の入り口にも同じ名があります。かなり以前だと思いますが、船越半島は島
であり、海流の働きで土砂が運ばれ陸続きになったと考えられます。
私は学校の裏にあるテレビ中継所から、広角レンズで船越地域全域を撮影しました。画面からは船越湾と山田
湾の両方が見られます。丁度中間にあたる部分に湿地帯があり、池のようになっています。これは当時の海が
取り残された部分であり、長い間に淡水化したと思われます。丁度、男鹿半島の近くにある八郎潟と同じ成因だ
と言えます。
現在の状態は、池と田んぼが開発され船越公園となり、遊園地や鯨と海の科学館などがありますし、山田湾側
の海岸はきれいに整備され、浦の浜海水浴場として有名になっています。当時は汚いゴミだらけの砂浜であり、
海水浴場には適しませんでした。
◎鯨(クジラ)の解体
当時、山田町大沢地区に日東捕鯨株式会社の大沢基地が有りました。現在はその基地は無く、その跡地に大
型ショッピングセンターがあり、海岸は大沢漁港になっています。
詳しい事は忘れましたが、当時沿岸捕鯨の解禁日は5月1日と記憶しています。5月に入ったある日、クジラが
運ばれてくると言う情報が学校に入り、カメラを担いで走りました。キャッチャーボートで運ばれて来たクジラの陸
上げから始まり、解体されていく様子を興奮しながら撮影した事が思い出されます。
沿岸捕鯨は勿論、遠洋捕鯨が全面禁止されて居る現在です。先頃の新聞にもありましたが、三陸海岸を基地に
調査捕鯨が開始されると報道されていました。日本人とクジラの関わりは昔からありました。クジラ一頭を捕れば
近隣の村々が潤うと言われたほど、捕獲されたクジラは余すことなく利用されたと言うことです。調査捕鯨の結果
を見守りたい思います。
◎十勝沖地震津波
1968(昭和43)年5月16日午前十時頃、青森県東方沖で発生した地震は「1968十勝沖地震」と名付けられ
ました。今から37年前の出来事です。この地震で青森県を中心に、北海道南部・東北地方で建物や道路損壊
の被害があり、津波が発生しました。
当時私は、山田町にある山田中学校に勤務していました。地震発生当時のことで今でも覚えていることは、三階
建ての端にあった教室がバスの中に居るように揺れ、周囲の切り通しの崖から土が落ちてきました。電気が止
まり、校内放送は使えない。急いで千名を超す生徒が校庭に避難しました。
唯一の情報は同僚のカーラジオしかありません。ラジオの地震情報で津波が来るという事でしたので、高台にあ
った校庭から全員で山田湾を眺めていました。このページの画像は、その時撮影した連続写真から作りました。
◎40年前の田ノ浜遠望
この画像は、前出の40年前の浦の浜画像と同様、高い場所からの遠望ですが、船越に赴任してすぐの五月頃
の遠足で撮影したものです。前出の画像はテレビ中継所の場所でしたが、これはかなり南側の尾根から見た田
ノ浜地区の遠望です。
◎岩手船越駅でのSL
この画像は1964年(S39年)四月の岩手船越駅の様子です。当時のネガを整理していたら、岩手船越駅構内
でのSL列車の画像があり、しかも駅構内での列車のすれ違い画像を発見しました。
詳しいことは忘れましたが、まだ山田線にSL列車が走っており、その様子を撮影するために陸橋から300ミリ
のレンズを使って写したものです。時間帯は、通勤の方々が乗る朝の列車でした。
◎スクールボート
スクールボートとは、子ども達の通学に利用される連絡船の通称でもあります。1964年(昭和39年)に赴任し
た山田町立船越中学校では、大浦地区の子ども達の通学にボートが利用されていました。大浦地区の漁協桟
橋から、浦の浜にある桟橋までが航路です。入り江沿いの曲がりくねった山道、ここを毎日通学するのは大変な
事です。子ども達はのんびりとした船旅(?)で通学していました。
◎C58283後日談
岩手船越駅でのSLの記事を紹介したところ、掲示板への書き込みがありました。その文章を呼んでいる内に、
私の心が大きく揺れ動きました。宮古から釜石に向かう列車のSLが、山田線での転落事故の該当SLの可能性
がある。もっと衝撃的なことは、そのSLの機関助手であった前田さんから、事故当時の体験談をお聞きしたとあ
ったからです。
◎就職列車
就職列車と言う言葉は、今では完全に聞かれない言葉です。昭和40年代の初め、当時の中学生も卒業後は就
職か、進学かを迫られておりました。現在のように100%近い進学率ではなく、就職することは家の人や友人と
の別れ、そして故郷とのつらい別れがありました。
◎1964年山田町織笠川で川開き
冬が近づく頃、岩手県の太平洋沿岸の河川では川開きが行われています。これは河川に遡上する鮭を柵で止
めておいて、一気に網で捕獲するもので昔から行われていました。内陸から沿岸に転勤した私にとっても、この
光景は始めて目にする事でもあり夢中になって撮影しました。
捕獲された鮭は、雌は採卵用に回され、雄はその場で観光客に販売されていました。フィルムから画像を作って
いて気がつきましたが、鮭の体に値段表が貼り付けてありました。当時で雄一匹が1600円ぐらいしていました
ので、かなり高価な鮭だったと思います。正月用には欠かせない鮭ですから、競って買い求めていたのでしょう
か・・。
◎40年前の陸中山田荒神社祭典
昨年の10月19日、陸中山田町大杉神社の祭典で神輿の海上渡御を見たとき、以前に住んでいた船越地区に
ある荒神社の祭典を思い出していました。船越地区には9年間住んでいましたが、荒神社の祭典には必ず出か
けて祭典の様子、特にも神輿を乗せた船や曳舟の様子を撮影していました。
ここでは、1964・65年(昭和39・40)の二年間に撮影したフィルムから、荒神社の祭典の様子を構成してみま
した。大杉神社の祭典で、知人の話してくれた「今は綱をつけて引くことはない。昔のことを知っている人にとって
淋しい事ですよ・・」の言葉が忘れられませんでした。
◎想いでの船越中学校・アラカルト
山田・船越に転勤した私は、海岸の生活に惹かれ色々な場面で撮影していました。学校生活も当然撮影してい
ましたが、個人の姿等が浮き彫りになることから紹介することは控えていました。昨年のことになりますが、拙い
ホームページの画像を通して、山田の皆様に当時の様子をお知らせする機会に恵まれ、私の撮影した画像が
当時の皆さんの思い出につながる貴重な財産だと知らされました。
ここでは、1964年(昭和39)〜1967年(昭和42)迄の4年間の出来事ですが、船越中学校の校舎とその周辺
を中心にし、その中で生き生きと活動している生徒の皆さんの様子を画像化してみました。
◎1994年農耕馬・代掻き体験学習
1994年5月13日、学校から500mほど離れた実習田に3年生以上の児童が移動しました。今では見られない
農作業の再現と言うことで、NHKや岩手日報の取材がありました。馬での作業に先立ち子ども達が田んぼに入
り、こなれていない土の塊を踏みつけて砕いていきます。
これは作業の具体的な打ち合わせの時、PTA役員のSさんから「おらえの馬使って昔の代かきを子ども達に見
せるか」となりました。Sさんの馬は8歳の雄で、山から木を切り出し運ぶ作業をしています。温厚で世話のいいS
さんは、馬の口元につける竹竿を作り、地域のお年寄りに相談し馬鍬を押す作業に出てもらうことになりました。