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         盛岡市桜山神社・裸詣り


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桜山神社前に整列した裸詣りの男衆。

真冬の風物詩である桜山神社・裸詣りが、1月26日夕方みぞれの中で厳かに行われました。この祭りは藩政時代から続く、無病息災、豊年を祈願する小正月行事だと言われています。盛岡市内では北山の教浄寺、盛岡八幡宮、そして桜山神社の裸詣りが有名です。

幼少の頃、桜山神社の裸詣りを見た記憶が少しありますし、同じ場所で学生時代に見たのが最後ですから、今回は五十五年ぶりに見た事になります。毎年行われていますが、撮影する機会が今までありませんでした。今回はかなり前から予定を組んで出かけてきました。

この画像は、二番組の裸詣り行列が桜山神社の入り口道路に整列し、一列になって神社に入るために待機している様子です。口に三角の白紙をくわえ、左手に三角の白紙を挟んだ長い棒を持っています。右手には鈴を持ち、さらしを巻いた上半身は裸で、腰には大きな幣束と注連縄を下げ、本殿に向かって拝礼してから境内に入って行きます。

江刺の家から早めに出たのでかなりの待ち時間がありました。雨降りでしたが、せっかく来たのだからと桜山神社、御神体になる有名な「烏帽子岩」をじっくりと眺めたことは言うまでもありません。巨石がごろごろ点在する盛岡城跡公園(岩手公園)も散策し、烏帽子岩の後ろを眺めたりもしました。

それにしても、学生時代から通算9年間も盛岡に住んでいた私ですが、公園内に巨石があることに気がつきながら烏帽子岩の存在が分からなかったとは・・、今にして悔しい思いがします。ここでは、桜山神社の様子と烏帽子岩の様子を紹介してみたいと思います。



桜山神社の様子・・・

正式な桜山神社の入り口は、R106岩手県庁前交差点から南に入る場所です。歩道から南を見ると石造りの大きな鳥居が二基見えています。ここから100m程歩くと、桜山神社と書かれた大きな扁額のある山門になります。

桜山神社参道 1・・・県庁脇交差点から見た様子。 R106岩手県庁前交差点から南に入る参道入り口です。かつては周囲には堀が巡らされていましたが、今もその一部が道路の両側に残されて居ます。

堀を見るためには、道路から外れて周囲にある家々の間から眺めることになります。
桜山神社参道 2・・・飲食店が多くあります。 この参道の両側は飲食店が多くあり、学生の頃には良く入った覚えがあります。家に囲まれた道路にひっそりと第二の鳥居が立っています。平日の午後でもあり、人通りはほとんどありません。
境内入り口にある山門です。家内安全、厄除開運と書かれた大きな幟が目につきます。その下の看板には午後一時からどんと祭り、午後五時過ぎからはだか祭りと書かれてありました。 桜山神社入り口 1・・・大きな扁額が目立つ山門。
桜山神社入り口 2・・・どんと焼きと裸詣りの案内がありました。 桜山神社本殿前
本殿前から入り口を見ると、今日の祭事のためでしょうか屋台が数軒並んでいました。まだまだ早い時間なので、もちろんお客さんは居ませんでした。 桜山神社本殿前から入り口方面を見る。
境内でのどんと焼き 本殿脇の広場では、山のように積まれた正月飾りが勢いよく燃えています。神主さんにはだか祭りのことをお聞きしたら、まだまだ時間があるので火にあたっていてくださいと言われました。

各地でどんと焼きが行われていますが、普段は市内ではたき火はおろかゴミ焼き等は厳禁です。正月飾りは別扱いで、人々の願いを込めての焼き方になるようです。見ていると、ぼちぼちと人が訪れて燃やしていました。
山門脇にひっそりとあるおもかげ地蔵尊 以前にも紹介したおもかげ地蔵さんです。

おもかげ地蔵尊・・・
この地蔵尊は南部家の江戸屋敷に祀られ、「おもかげ地蔵尊」と呼ばれていました。

七千人以上の犠牲者を出した安政の江戸大地震の時、盛岡藩江戸屋敷も全壊したにもかかわらず、地蔵さまのおかげで死者・けが人も少なく、特に子ども達を守り災難から逃れたと、それ以後も大切にされてきました。

いつの頃からか不明ですが、盛岡市北山の南部家菩提所聖寿禅寺の境内に移され、本堂の入り口に静かに祀られてきました。(※案内説明板から)



烏帽子岩の様子・・・

櫻山神社の御祭神・・・宝大石・烏帽子岩

現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しており、その傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノとほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。古代以来、人々は岩石に神が宿ると信じ崇敬していました。

利直公は、これを瑞兆と慶び「八幡社の重宝」として崇められたのです。(※看板案内文章より)

桜山神社本殿脇に赤い手すりのついた階段が上に延びています。入り気内には宝大石・烏帽子岩と書かれたあります。階段の上の方には烏帽子岩の先端部が見えています。

烏帽子岩入り口 1 烏帽子岩入り口 2

大きな岩石がごろごろあります。烏帽子岩は左に進みます。 石畳の通路を右に進むとお稲荷さん、左に進むと烏帽子岩になります。

そばの立て札には、烏帽子岩と同じような小石をみつけ持つと病気にならない・・・と書かれてあります。足下には砕石状の小石が敷かれてありますが、探すと結構同じ形の石がありました。
烏帽子岩(兜岩)のいわれ
盛岡城築城時・・・慶長2年(1597年)頃、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈(6.66m)ばかり突出した大石が出てきました。 この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。


偶然でしょうか、確かに先端部が三角形に切り取られ突き出ています。アングルを変えて撮影してみました。

烏帽子岩 1・・・全体の様子です
烏帽子岩 2・・・接近して見ると。 烏帽子岩 3・・・どーんと鎮座している様子がわかります。この下にどの位埋まっているのでしょうか。
烏帽子岩 4・・・底の先端部の様子です。細かい亀裂(節理面)が見えています。 巨大な烏帽子岩の底になる部分です。よく見るとかなりの割れ目(節理面)があることに気がつきます。これから長い年月をかけて風化していくのでしょうが、この割れ目から壊れていくと思われます。もちろんですが、うん十万年よりもっと先のことだと思われます。

烏帽子岩を公園側から見た様子です。こちらからは、先端部の烏帽子状が見えません。烏帽子岩の周辺には、花崗岩の巨大な岩石がごろごろしています。

築城当時は、この場所が北上川と中津川の合流点に位置した丘陵地だったと言います。それにしても、このような巨大な岩石(花崗岩)が、いつの時代に、どのようにしてこの場に作られたのでしょうか、興味がわいてきます。

そう言えば、盛岡市内には巨大な石・・・巨大な石を割って成長した石割さくら、岩手の名称になったと言われる三石神社の巨石・・・があります。

公園側から見た烏帽子岩 1・・・大きな注連縄が欠けられています。
公園側から見た烏帽子岩 2・・・巨大な花崗岩がごろりとあります。 公園側から見た烏帽子岩 3・・・岩の割れ目が見えています。
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