遠野遺産を訪ねてに戻る


        三猿の石碑群と早池峰古道


ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 ほっづぎある記 心のオアシス  

location:uchinome.jpトップ>自然の表情>風景の表情遠野遺産を訪ねて>三猿の石碑群と早池峰古道

  サイトマップ


やっと見つけた三猿です。庚申塔の根元に刻まれてありました
三猿の石碑群と早池峰古道・・・

目、耳、口を塞いだ三猿を刻んだ石碑など8基の石碑が、早池峰山へ向かう古道に建ち並んでいる。三猿の石碑は庚申塔で、庚申信仰が長く続いた記念にたてられたもの。石碑群と古道の雰囲気が歴史を感じさせる。

遠野遺産の資料を見たとき、一番心を惹かれたのがもっとも遠野らしい原風景として「荒神神社」、「火渡の石碑群」、そして、「三猿の石碑群と早池峰古道」でした。ページタイトルに表記するにあたり、「見ざる・言わざる・聞かざるの石碑群と早池峰古道」の正式名称を「三猿の石碑群と早池峰古道」と変更してあります。

この石碑群を撮影するために今まで二回ほど探しましたが、何故か見つけることが出来ませんでした。三度目にしてやっと見つけました。現場は附馬牛の中心地から西に1800m程走り、そこから大出地区にある早池峰神社に向かう道路左側にありました。以前走ったときは草の中にある標識なので、注意していないと見つけられなかった様でした。

探してやっと見つけた三猿ですが、今から210年前の建立となりますと、当時の世情として安易に南部藩領地からは出られなかったはずです。何かの講中参りで日光に行き三猿を見てきたのでしょうか・・?。そして、講中記念に庚申塔を建てたのでしょうか・・?、詳しいところは分かりません。三猿の彫刻部分に土が付いていますので、次回訪れたときは刷毛等で掃除をしてから撮影したいなと思いました。

何回も見たことのある日光の三猿です。改めて三猿について調べてみました。


日光東照宮神厩(三猿)・・・
神厩は寛永12年(1635)に建てられたもので、桁行3間、梁間5間、切妻、銅瓦葺き、妻入りの建物です。東照宮境内の中で唯一の白木造りで、当初は初代将軍徳川家康が関ヶ原の合戦の折乗馬していた馬が神馬とされていたそうです。長押上には猿が馬の守り神であるという信仰から猿の彫刻が8面彫り込まれ、子育てから恋愛、結婚、妊娠と人間の一生が風刺されています。

特に2面には有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」を模った三猿があり、子供の教育とは『悪い事を見たり・言ったり・聞いたりしないように育てなさい』という教育を論じているとも、東照宮の根本理念を現しているとも言われています。


「見ざる、聞かざる、言わざる」は日本には8世紀ごろ、漢語の「不見、不聞、不言」を訳した天台宗の教えとして伝わったものだという説がある。日本語の語呂合わせから日本が三猿発祥の地と思い込む人は多いが、実は「見ざる、聞かざる、言わざる」によく似た表現は古来世界各地にあり、同様の像も古くから存在する。

そしてまた、それぞれの文化によって意味するところは微妙に異なる。三猿の起源は未だ十分に解明されておらず、今後の研究と調査に委ねるところが大きい。(※ネット資料から)



案内表示板がありここから入ります。 現場はやぶの中という感じで狭い進入路があります。

標識の前に車を置きました。
ほどなくして道路沿いに石碑が見えてきます。 大きくカーブした通路沿いに石碑が7基並んでいました。

木の葉が茂っていることもあり、木漏れ日が石碑を照らしています。撮影条件としてはかなり厳しい場所になります。
正面から見た7基の石碑です 7基の石碑を正面から見たところです。あと1基の石碑は、さらに左に入った所にありました。

碑文は入り口から、奉念仏供養塔、南無阿弥陀仏、三峯山、愛宕山、月山・出羽山・湯殿山、奉庚申、馬頭観世音、山神塔でした。
庚申塔前から入り口方面を見ます。昔の人達はここを通りすぎて左側に進みました。 庚申石碑から入り口方面を見た様子で、大きく南側にカーブした通路になっています。

奉庚申石碑には注連縄が掛けられてあります。
一番奥にあった八番目の石碑です。 山神塔の石碑は、さらに奥まったところにぽつんと立っていたのが印象的でした。
三猿が刻まれている庚申塔です。どこにあるかお分かりでしょうか・・?。 資料を見た限りでは、三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の独立した石碑があるとばかり思っていたのですが、それらしき石碑が見あたりません。

並んでいるそれぞれに意味を込めているのかなと諦めたのですが、再度資料を読み返してみました。

「庚申塔」がそれであると書かれてますので、この石碑について詳しく調べてみた。

もちろんですが背面には何もありません。庚申塔の上から地面まで、碑文を読みながら見ていきました。
きれいに刻まれていた三猿と施主の名前です。 ありましたあ・・、地面すれすれの場所に刻まれていました。

見ざるが頂点にあり、左に言わざる、右に聞かざるの三態が刻まれてあります。施主が仁兵衛、源右衛門、寛政十二年十二月十二日となっていました。

ちなみに寛政12年は西暦1800年にあたり、今から丁度210年前のことで干支が庚申(かのえさる)となっています。
七番目にあった一番小さな馬頭観世音、良く見たら右左と書かれた道標でした。

周囲の石碑に比べて小さな馬頭観世音です。碑文を良く見たら、どうやらこの石碑は現地に建てられた道標のようでした。

詳しい文字は読み取れませんが、右と左の文字が分かります。

特にも、右の文字の下には鳥居(早池峰神社方面)の絵が描かれてあります。これは絵文字だなあと思いました。

以前住んでいた山田町にも、絵文字入りの道標があり、船越方面(船に乗った船頭がこいでいる絵)、大槌方面(大きな槌の絵)を左右の表示で刻まれてあります。