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       2011紫波町五郎沼・古代ハス


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清楚な感じで咲き誇る古代蓮(中尊寺ハス)、蕾が沢山ありますのでしばらくは楽しめそうです。

7月26日五郎沼・・・

岩手県・紫波町にある五郎沼、平泉文化と親戚関係と言われる歴史を持つ観光名所です。平成14年に中尊寺から株分けされた古代ハスですが、歴史的由緒を辿ると五郎沼に生えていたものだろうとのことでした。昭和25年の中尊寺学術調査で、調査団の大賀一郎博士が保存していた種子を、教え子である恵泉女学園短大教授の長島時子教授が平成6年に発芽させ、同10年に開花させました。

五郎沼に生えていた当時のハスの実の種が、平泉四代目になる泰衡の首桶に入れらたものであろうと推定されています。7月23日のことですが、五郎沼駐車場で古代ハスまつりが行われました。まつりの中で、古代ハスを発芽・開花させた長島時子名誉教授が、当時の想い出を話されたと言います。

家から40分ほどの距離にある紫波町南側にある沼です。7月7日のことでしたが、盛岡への用事の帰りに寄ってみたがつぼみが出始めた所で開花はしていません。五郎沼周辺には、古代ハスまつりの幟が立てられてありました。7月23日にまつりを行ったという報道があり、行けば良かったなあと思いましたが残念でした。


五郎沼の蓮のいわれ・・・

囲いの中の蓮は八百二十年前五郎沼に咲いた古代蓮です。平泉の中尊寺には藤原清衡、基衡、秀衡の三人の遺体と泰衡の首がミイラとなって安置されています。これは昭和25年の学術調査で確認されました。

泰衡の首桶の中から蓮の種子が見つかり、調査団の関東学院大学故大賀一郎博士が研究用に持ち帰り保存していたものを、教え子の恵泉女学園短大の長島時子教授が生命工学(バイオテクノロジー)で平成六年に発芽させ平成十年開花。五年がかりで栽培にこぎつけ、平成十一年中尊寺に移植し初めて開花させたことが大きな話題として報道されました。

この蓮については、平成十二年九月の五郎沼薬師神社例大祭に中尊寺の千田孝信貫首さんが出席され、次のように話されました。

『文治五年(1189)、源頼朝が二十八万四千騎の兵を引き連れて陣が丘蜂神社に陣を敷いていました。そこへ泰衡の首が届けられました。泰衡の首は頼朝の実検のあと長らくさらし首にされていましたが、その後ひそかに祖父母たちの眠る中尊寺に安置されました。その時、首桶の中に泰衡と親戚関係にある樋爪氏の五郎沼に咲いていた蓮の花を、五郎沼ゆかりの婦人の手で手向けられた蓮が種子となり、八百年経ってよみがえったものです。』

この蓮は平成十四年五月二十八日中尊寺から株分けされ五郎沼の池に移植されました。

平成十四年五月 箱清水公民館  (※池の側にある案内板から)

※古代ハスの名称は俗称であり、ハスの項目で調べると中尊寺の首桶から発見され種子から発芽させ、開花させた
  こともあり、「中尊寺ハス」と命名されたとありました。ここでははっきりしなかったので、一般的な古代ハスと表現し
  ております。


五郎沼脇通路 R4号から西側に入る五郎沼、道路や駐車場がきれいに整備されていました。

一人のご老人が、長いササ竹を手にして何かを叩いている姿が目に入りました。お聞きすると、散り始めた花びらを叩いて落とし見栄えを良くするのだと言います。

この方から、五郎沼の古代ハスや歴史について色々お聞きすることができ、新しい発見が数多くありました。

※説明文の中で青色文字の部分がありますが、ご老人
  の説明を参考にして掲載しました。
駐車場から見た通路とハス池 毎日管理されておられるご老人
地域の方々が作った間伐材のトイレ。

駐車場やトイレも整備も整備され、地域の皆さんの奉仕で作業が進められたと言います。

平泉にゆかりのある五郎沼の古代ハス、世界遺産登録のこともあり、観光バスで見学に来られる方が増えていると言います。平泉との関わり、嬉しい話でした。


ハス池の様子 1・・・全体の様子。 ハス池の全景・・・

蓮池の周囲は、以前より立派に整備されていました。町に働きかけて間伐材を使って整備したと言います。

以前は狭い板があるのみで、歩くとたわんだりして不安なところもあったからです。通路も幅が広くなり、手すりの柵が頑丈になりゆっくりと眺めることができるからです。

ハス池の広さは、目測で4間×8間(32坪)と見ましたが正確ではありません。
ハス池の様子 2・・・東側の通路。 ハス池の様子 3・・・西側の通路。
ハス池の様子 4・・・池の中にある通路。 西側の散策通路には、池の中まで入ることができる部分があります。この場所はハスの花を撮影するときのポイントになります。

柵がありませんので、気をつけないと池の中にどぼんと落ち込みます。
ハス池の様子 5・・・池の中から見た様子。 池の中の通路からの撮影になります。丁度南側を向いた方向になります。

ハスの実、中に種がありますが、この種からも増えます。しかし、素人では発芽が大変難しいと言います。この池のハスの実をこっそり採っていく方もありますが、発芽させることはできないでしょう。

このハス池の深さは膝ぐらいの深さがあります。隣の空き地は池の続きですが、以前はここで稲の苗を育てていました。
ハス池の様子 6・・・中央にカメがありますが、これに入れて中尊寺からこの地に移植したと言います。 平成14年、中尊寺から瓶に入った地下茎を頂きました。池の隅に置いているのがそれです。それから10年経ってこのくらいまで増えてきました。

古代ハスの由来を見ると、ここの池(五郎沼)咲いていた当時のハスの花(実が付いていた)が藤原四代の泰衡の首桶に入れられていた。今でもここら辺の古老達は、葬儀の時に死者を弔う意味でハスの花を入れていますよ。


中尊寺の古代ハス池の側に、田んぼのような場所にカメを置き、その中で多数のハスを育てていました。中央部にカメがありますが、お分かりでしょうか・・・。

蕾と花、そして実・・・

ハスの花は3日で散ります。日の出と共に開花し、午前十時頃には閉じてしまう。午後に訪れた方々は「まだ咲いてないよ」と言いますが、閉じているのです。

見栄えを良くするために、散りそうな花を叩いて花びらを落とします。咲き出したものは叩いても落ちません。


蕾 1
花と蕾 開花した花、上の方が若そうです。
古代ハスの拡大です。お話をお聞きしたご老人の説明ですと、花びらの先端部がほんのりと赤いの特徴だと言います。

花の中央には果実がありますが、さらに接写すると14個の点々がきれいに並んでいます。これが受粉し時間が経つとこの下に種子が作られます。
果実と花 1
花の真上から 果実部分の接写。14個の種子になる部分が分かります。
果実の部分を時間経過で比べてみました。最初は黄色だったのが緑になり、さらに14個の種子の区画が作られていきます。

ハスは地下茎のレンコンで増えます。古代ハスのレンコンは葉や花の茎の太さ(鉛筆)ぐらいで細いのです。でも、切ってみるとちゃんと普通のレンコンのように穴が開いています。

食用のレンコンは現代のハスで、品種改良されたものです・・・。
このことは知らなかったので、なるほどなあと思いました。

果実と花 2
若い果実 固くなってきた果実

蓮の葉の中央に集まった水。きれいで巨大な水滴です。 ハス池あれこれ・・・

ハスの葉は円形で葉柄が中央につき、撥水性があって水玉ができる(ロータス効果)。

ハスの葉はその微細構造と表面の化学的特性により、決して濡れることがない。葉の表面についた水は表面張力によって水銀のように丸まって水滴となり、泥や、小さい昆虫や、その他の異物を絡め取りながら転がり落ちる。

(※ウイキペディアより)
落とされた花びら、浮かんでいる姿は曲水の宴で流される羽觴の姿に似ています。 ササ竹でたたき落とされた花びらです。水面に浮かび風に流されていました。水底には稚魚の姿も見えています。

じっくりと見ていたら、毛越寺で行われる曲水の宴で流される羽觴の姿に見えてきました。凄く優雅な雰囲気です。
蓮の葉と10枚の花びら。 資料等で見ると、古代ハスには花びらが15〜20枚ぐらいあると書かれています。正確には、中尊寺ハスと命名されたとあります。

中尊寺から移植された古代ハスは、ここ五郎沼の他に北上市和賀町岩沢にある多聞院伊澤家にある池で見ることが出来ます。

おなじみトノサマガエル。

ハス池とトノサマガエル、一心に虫が飛んでくるのを待っています。大好きなトノサマガエルですが、この頃はめっきり姿が見えなくなってきました。

かなり側まで近づいて撮影したのですが、逃げられませんでした。「ハス池や カエルとびこむ 水の音」を期待しましたが・・・。

緑のハスの葉の上にいるため、見事な保護色で変化していました。側には泥の中から目だけが出ているのも見ましたが、こちらの身体は茶色でした。

いろんなお話をお聞きした地元のご老人。 私の家はそぐそこにあり、毎日来て見ていますと話しておられた方です。お名前をお聞きしなかったのが悔やまれました。

長いササ竹を持った私よりも年長のご老人、色々と説明をして頂きました。

なるほどなあと言うことと、今回お話をお聞きして始めて分かったことなどもあり、良い方にお会いできたなあと感謝いたします。

樋爪館周辺の歴史絵図、800年前の藤原氏の分家と言います。

平泉文化と親戚関係と言われるのはここ五郎沼だけです・・と話されたご老人。五郎沼の蓮のいわれにも書かれてありましたが、平泉の分家とは知りませんでした。歴史絵図にある史跡等を廻ってみたいなと思います。何年か前に神社等を廻りましたが、民家の中にあり入るのが遠慮であったことが思い出されます。供養のために建てられた古碑群を見たいなと思います。


歴史のロマン香る樋爪館・・・


樋爪館は、平泉初代藤原清衡の四男清綱がここに派遣され、その子、太郎俊衡、五郎季衡(すえひら)らが居を構えて周辺を支配したとされている。館跡は赤石小学校付近にあり、周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が確認され、かわらけなどが出土している。箱清水という地名や松原という屋号などはこうした館の空間を想像させる。また、薬師堂(現薬師神社)や大荘厳堂などがあったという。寺の跡にはその後供養のために建てられた古碑群が残されている。

五郎沼は、以前は西に拡がる広大な沼であったが、季衡(すえひら)が堤防を築くなど灌漑用水池にしたとも考えられる。季衡は好んでこの沼を泳いだという。

館は西方に奥大道、東に北上川と東街道南北に走る交通の要衝にあり軍事と物流の拠点でもあった。北上川の舟場は平泉館とを結ぶ北のターミナルといえる。こうした交通路を経てこの地方から産出される砂金や馬、漆、米などの産物が送られ、平泉仏教王国のの造営を支えたと考えられる。ちなみに「ひづめ」はアイヌ語でピッツ・ムィ(河原の港)が転化したものである。

文治五年(1189)九月四日、源頼朝が平泉を攻めて紫波の陣ヶ丘に布陣した。この時、樋爪氏一族は館に火を放ち北へ逃亡した。頼朝の裁定で太郎俊衡が藤原氏家臣中ただ一人許され、この地に戻って寺の住職となったという。その他の一族はすべて関東方面に流罪となった。

頼朝に陣ヶ丘に晒された平泉四代藤原泰衡の首をはずし、その首桶に蓮の実を入れて金色堂に納めた人物がいる。それができたのは太郎俊衡以外に考えられない。八百年の時を経て平泉に咲いた蓮は、平成十四年、樋爪館跡に里帰りして古代のロマンを今に語り伝えている。

平成20年12月 紫波町平泉観覧史跡協議会   

(※池の前に立つ案内板から)