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         会津若松市・飯盛山


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30年ほど前に訪れたことがある飯盛山です。飯盛山については、私が史実を云々するまでもなく、日本国内最後の内戦とも言われる戊辰戦争で、悲劇の白虎隊物語として日本人の心の中に位置付いています。

以前に訪れたときも、山内は参拝客の手向ける線香の煙が一面に漂っていた記憶があります。そしてかなりの人出もありました。今回もまた多くの参拝客が訪れて居ましたし、ガイドさんの説明の後には少年隊士の墓に率先して手を合わせている姿が印象的でした。

日本最後の内戦・戊辰戦争・・・黒船が現れ世間が揺れる幕末。会津が全国に知られているのは、この時期の戊辰戦争が大きな要因です。戊辰戦争は1868年・鳥羽伏見の戦いから始まった日本最後の内戦で、旧幕府軍と新政府軍が激しく戦いました。会津は旧幕府軍として最後まで抵抗しましたが、最後には降伏することになります。悲劇で知られる白虎隊や新選組など、多くの英雄が活躍し、その命を落としたのもこの戦争です。
                                                    (※会津若松観光公社HPより)



飯盛山入り口の参道です。以前の記憶が定かではないのですが、木立の中の急坂を登ったことを思い出しました。今は石段はきついのですが、右側には坂登り専用の動く歩道が完備され(もちろん有料ですが)きつい坂は楽に登ることが出来ました。

観光シーズンとは違うはずなのに、何故か多くの参拝客で混み合っていました。そして、学習遠足でしょうか・・、子ども達が多くてとてもにぎやかでした。気になったのが入り口の看板です。文字が薄くなり側に行かないとはっきり読み取れませんし、山内の観光絵地図も色が薄れていたことです。多くのみなさんが訪れるのですから、何とかして欲しいなと思いました。

飯盛山参道 1・・飯盛山通り入り口にある看板。 飯盛山参道 2・・参道入り口の両側はおみやげ屋さんです。今日の観光客はかなりの人出でした。
飯盛山参道 3・・元気な学習旅行の小学生。みなさん大きなザックを背負っていました。 飯盛山参道 4・・左側の通路を通ると、さざえ堂や宇賀神堂に出ることが出来ます。


山上にある白虎隊士のお墓です。正面には自刃した十九名の墓と、右脇には戦死した三十一名の墓が祀られてあります。絵地図を見ると周辺にも色々あるようでしたが、団体行動と時間の関係で行かれなかったのが残念でした。やはりこの場所は、ゆっくりと来て納得で来るような見学時間が必要です。
飯盛山墓地 1・・自刃した十九人の墓が並びます。 この墓は鶴ヶ城の方を向いて作られたと言います。刻まれている年齢は数え年。中央の慰霊碑の下に19名まとめて埋葬されているとのことでした。

正面の墓は、明治元年(1868)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙園寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。      (※現場にある案内から)
飯盛山墓地 2・・案内ガイドをしてくれた方、戊辰戦争の説明に感心しました。 戊辰戦争の歴史とその背景について、熱心に説明してくださったガイド役の女性です。説明の後には、一緒に手を合わせて下さい・・・と、率先して合掌している姿に感動しました。

墓に刻まれている隊士の名前と年齢が分かります。
飯盛山墓地 3・・右側にある戦死白虎隊士の墓です。 右脇の山側にひっそりとあった戦死者の墓でした。手向けられた花が目に留まりました。

右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士三十一名の墓です。
飯盛山墓地 4・・会津藩主松平容保公の弔歌の碑。書かれてある内容に心を打たれます。

墓地の左側にあった石碑です。文字が薄れてはっきりとはしません。側にあった解説の案内を読んで納得です。

松平容保(かたもり)公弔歌の碑・・・戊辰戦役当時、自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを、現加東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。
・・幾人の涙は石にそそぐとも

   その名は世々に朽ちとぞ思う・・  源 容保   
  (※案内板から)

この弔歌の文章を読みながらタイプしていると、当時の様子が思い起こされ、ジーンとなった私でした。あれから140年ほどの年月が経過した今、人々の心に刻み込まれている白虎隊士なのだなと思いました。

飯盛山墓地 5・・飯盛山以外の場所で戦死した会津藩少年武士の慰霊碑。 この石碑は、白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
飯盛山墓地 6・・戊辰戦争で自刃、戦死した会津藩婦女子の殉難烈婦の碑。 会津藩殉難烈婦の碑・・・
この碑は、会津戊辰戦争で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため、昭和3年4月1日藩士山川健次郎氏(理学博士帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。


墓地から下がった所にある白虎隊士十九の人形が祀られている宇賀神堂です。

白虎隊士の人形の前に一枚の写真が飾れてありました。この方は、自刃後ただ一人の蘇生者であった飯沼貞雄氏(幼名貞吉)です。飯沼さんは蘇生後、逓信省で技師となり、退官後は仙台市に住んでいましたが、昭和6年2月12日79歳で亡くなったと言います。

二十名の仲間と共に自刃したのに蘇生したことから、「卑怯者」と周囲から言われ当時のことを語ることはなかったと言います。晩年になり当時の様子を語ったことから、自刃の様子が知られるようになり、そのことをもとにして自刃の様子が絵に書かれたと言います。絵はこの場所に掲げられてあリました

右の画像の中央に布きれがありますが、白虎隊士が持っていた布で、茶褐色に変色している部分は血痕とのことです。この布は自刃した場所に落ちていたものと言います。

宇賀神堂 1・・自刃蘇生者、飯沼貞雄氏の写真。 宇賀神堂 2・・自刃した白虎隊士十九の人形が祀られている。


広角レンズでの撮影なので、かなり画像がゆがんでいることをお断りいたします。

国指定重要文化財(建造物)・・旧正宗さざえ堂(三?堂)と書かれてありますが、?に該当する漢字がありません。

「さざえ堂」の通称があり、高さ約16.5mで、初層直径約6.3mの六角形平面に回縁を付け、正面には唐破風の向拝を付している。正面から入ると右回りのスロープで登り、頂上の太鼓橋を越えると降りの左回りスロープとなって背面出口に通ずる。昇降を通じて建物内を三度回ることになることからさざえ堂の名がある。

スロープの内側に沿って西国札所の三十三観音像が祀られ、一度入ると巡礼を終えたことになると言う。言わば江戸時代における庶民のための身近な巡礼の建物であった。(※案内看板から)


内部の参拝はしませんが、時間があればぐるりと回ってみたかったところでした。
さざえ堂 1・・内部の構造からこの名が付いたようです。本当の名は当てはまる漢字がありませんでした。 さざえ堂 2・・お堂の上の部分。


白虎隊記念館です。当時のものが数多く展示されて居ましたし、解説担当の方が詳しく話されていました。白虎隊関係の資料が販売されていたので求めてきました。

入り口にあった白虎隊士の銅像ですが、その表情が幼いのです。今の年齢に換算すると、中学生年代でしょうか。生まれ育った郷土を死守する心意気が伝わってきます。

愛犬クマ滝沢山中に出迎え・・・この銅像は、白虎隊士と離れた酒井峰治(十六歳)は、不動滝上の滝沢茸山で、幸運にも愛犬クマの出迎えを受けて大いに元気づき、このクマの道案内により、三ノ丸明かす口から無事入城し籠城戦に大いに活躍した。(※説明文から)
白虎隊記念館 1・・入り口にあった白虎隊士の像、童顔が印象的すぎました。
白虎隊記念館 2・・この右側に入り口があります。絵看板と銅像があります。 白虎隊記念館 3・・愛犬クマ滝沢山中に出迎えと名付けられた銅像です。


戸の口堰洞穴 1・・猪苗代湖の水を引く隧道、この穴を城の安否を知るために通ったと言います。 戸の口堰洞穴・・・
今から400年前元和年間、猪苗代湖の水を会津地方に引くため郷士八田氏が起工し、元禄年間まで孝治が続けられ後天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により、飯盛山の山腹約150mを人工的に穴を開け、水田2500ヘクタールの灌漑に供し・・以下省略。

白虎隊士中二番隊は、戸の口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが戦い利にあらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士二十名が通過した洞穴である。(※案内文から)
戸の口堰洞穴 2・・かなりの水流があります。山の反対側にある戦場から、この穴を通ってきたと言います。 水が流れ出る正面から見た様子。かなりの水量があり、山の向こう側にある戸の口原の戦場から、200m程の隧道を抜けてきたと思われます。

入口は狭いが、奥の方は大人の人が立って歩ける程とのこと。当時の深さは膝ぐらいまであったと言います。


白虎隊の剣舞を舞うお店の方。観光客が来るたびに舞うと言います。 おみやげ屋さんの駐車場で白虎隊士の剣舞を披露する店員さん。店員さんのサービスも大変です。山内の案内ガイドや、おみやげ販売担当で忙しそうでした。
飯盛山墓地付近の絵地図。

上り坂入り口にあった絵地図です。本物は色が褪せて薄くなり、ちょっと読みにくかったのですが、画像処理をしてくっきりさせてみました。

70名ほどの団体での行動でした。案内の方に誘導され、限られた時間内に飯盛山全体を見学するのは困難でした。白虎隊だけでなく、会津若松市には史跡等が沢山あり、ゆっくり見学したいなと思った私です。

それにしても見学客の多いのには驚きです。戊辰戦争と白虎隊、戦争には勝ち負けが避けられませんが、現地にあって当時のことに想いを馳せ、感慨にひたることは温故知新の心に繋がります。この心を無くしてはいけないなと思います。