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奥州市江刺区・五位塚墳丘群
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家から車で10分位の場所に「えさし藤原の郷」と呼ばれる歴史公園があります。平成7年5月にオープンした歴史公園「えさし藤原の郷」は、NHK大河ドラマ「炎立つ」のロケ地に当時の江刺市が選ばれたことを契機に、広大な敷地に総工費36億円ほどを投入し、ロケセットではない本物の平安時代の建物を建築したものです。 奥州藤原氏開闢の祖である藤原経清(生年不詳ー1062)陸奥国亘理郡の豪族で、亘理権太夫とも称されていました。父は藤原頼遠。子に奥州藤原支所台の清衡がいます。資料では「陸奥話記」にのみ経清の名が登場しています。経清は官人として陸奥守藤原登任に従っていましたが、永承六年(1051)に鬼切部の戦いで国府と対立した奥六郡の安倍頼時(頼良)の娘を妻に迎えました。 陸奥守の後任に源頼義が就任すると頼時も朝廷へ帰服しましたが、頼義は安倍氏を激しく挑発し、天喜四年(1066)安倍氏が蜂起して前九年合戦に至ると、同じく安倍氏の娘婿であった平永衝が阿久利川事件で殺され、経清は安倍氏の陣営に参戦しました。しかし、前九年合戦は厨川の戦いを最後に敗戦。安倍氏陣営に属した経清頼義は怒り鈍刀で経清を斬首します。 五位塚墳丘群は安倍氏と共に、前九年合戦を戦い厨川柵で敗れた経清とその一族一党の霊を弔うために造られた墓だと伝えられています。峰伝いに多くの塚群があり、その数は大小六十基以上とも言われています。経清が散位(無役)の五位の階位を持っていたことから、この塚が五位塚と称されるようになったと伝えられています。 九月十七日の命日には毎年、「藤原経清公命日祭」がこの地で開催されています。 |
五位塚について・・・ この墳丘群は、古くから五位塚と呼ばれ、平泉藤原氏初代清衡公の父藤原経清と、その一族一党の墳墓と伝えられている。経清は、平安貴族藤原氏の一門で、宮城県亘理地方を支配した国府の五位の官人であったといわれ、亘理太夫とも称された。また経清は、当時奥六郡を支配していた大豪族、俘囚の長といわれた安倍頼時の娘を妻とし、江刺郡豊田館に移り住んでいた。 平安朝廷が、奥州経略のために派遣した陸奥守源頼義・義家父子と安倍氏の戦いが「前九年の役」であるが、この戦いで経清は初め朝廷郡の武将であった。しかし、中途から妻の父である安倍頼時に味方し、度々朝廷軍を打ち破る奮戦をしたが、最後は厨川の柵で安倍氏と共に討滅された(1062年)。 この付近には、豊田館を始め、八幡太郎義家の創建と伝えられる八幡社や白旗の池、また古代清衡道としての「東海道」の跡などの、多くの史跡が残されている。 (※現場の案内板より) |
以前に来たときは気がつかなかったのですが、墳墓と思われる塚のある場所から江刺の田園風景を見下ろしてみました。すっきりとした空模様でなかったので奥羽山脈がかすんでいますが、左側の様子は焼石岳を望む方向です。 また、右側の様子はさらに南の栗駒岳方向を望んでみました。この方向が藤原三代の栄えた平泉になります。すっきりと晴れ上がった青空の下の時に、再度撮影したいなと思います。墳丘群の上から江刺の大地を見下ろすと、かつてこの地に生活していた先人達の姿が浮かんでくるような気がします。 画面の中央にある橋脚は、東北新幹線の高架橋です。これから田んぼに水が入り、夕日が輝く情景が見られる場所になります。 |
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