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        奥州市江刺区・五位塚墳丘群

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平成14年9月14日、この地に建立された藤原経清公慰霊五輪供養塔。

家から車で10分位の場所に「えさし藤原の郷」と呼ばれる歴史公園があります。平成7年5月にオープンした歴史公園「えさし藤原の郷」は、NHK大河ドラマ「炎立つ」のロケ地に当時の江刺市が選ばれたことを契機に、広大な敷地に総工費36億円ほどを投入し、ロケセットではない本物の平安時代の建物を建築したものです。

奥州藤原文化を築いた三代の祖にあたる人物『藤原経清(つねきよ)』が、当地区岩谷堂にある豊田館に住まいしていたと言われます。奥州藤原三代の初代である清衡の父は藤原経清(つねきよ)になりますが、経清は数奇な運命を辿り、最後は「前九年の役合戦」で源頼義によって滅ぼされてしまいます。ここで紹介する五位塚墳丘群は、前九年の役で滅んだ経清とその一族一党の墓所と言われる場所です。

豪華絢爛の平泉文化を目の当たりに出来る歴史公園は「炎立つ」のロケ以後、「花の乱」「秀吉」「義経」のメインロケ地として利用されてきました。また、NHK大河ドラマ以外にも映画やテレビ番組のロケ地として利用されています。


五位塚墳丘群・・・

奥州藤原氏開闢の祖である藤原経清(生年不詳ー1062)陸奥国亘理郡の豪族で、亘理権太夫とも称されていました。父は藤原頼遠。子に奥州藤原支所台の清衡がいます。資料では「陸奥話記」にのみ経清の名が登場しています。経清は官人として陸奥守藤原登任に従っていましたが、永承六年(1051)に鬼切部の戦いで国府と対立した奥六郡の安倍頼時(頼良)の娘を妻に迎えました。

陸奥守の後任に源頼義が就任すると頼時も朝廷へ帰服しましたが、頼義は安倍氏を激しく挑発し、天喜四年(1066)安倍氏が蜂起して前九年合戦に至ると、同じく安倍氏の娘婿であった平永衝が阿久利川事件で殺され、経清は安倍氏の陣営に参戦しました。しかし、前九年合戦は厨川の戦いを最後に敗戦。安倍氏陣営に属した経清頼義は怒り鈍刀で経清を斬首します。

五位塚墳丘群は安倍氏と共に、前九年合戦を戦い厨川柵で敗れた経清とその一族一党の霊を弔うために造られた墓だと伝えられています。峰伝いに多くの塚群があり、その数は大小六十基以上とも言われています。経清が散位(無役)の五位の階位を持っていたことから、この塚が五位塚と称されるようになったと伝えられています。

九月十七日の命日には毎年、「藤原経清公命日祭」がこの地で開催されています。
(※平成17年実施の「伝説と史実で辿る義経のあゆみ」歴史ツアー資料より)


私自身、あまりにも身近にある場所なので通り過ぎることがあっても、現地を訪れていませんでした。今回で二回目の現地入りですが、3年前とは違い通路や周辺の雑木等が伐採され整備されていました。現場は松と雑木の混成林ですので、撮影するには葉が茂る前の今が最適です。



岩谷堂から大船渡に向かう道路(県道156号)脇に豊田館跡があり、そこから南の場所に入った場所に入り口があります。

現場には五位塚遺跡の立て札と、藤原経清一族墓所・五位塚と刻まれた石柱が立っています。正面の坂道を上り松林の中をしばらく歩くと、大きな案内板と石の灯籠が二基見えてきます。
五位塚入り口
松林の通路 1 松林の通路 
墳墓入り口の石灯籠と案内板。

経清の墳墓といわれる小高い丘陵にここから入ります。右端にある案内板には、「五位塚」についての説明が書かれてありました。



五位塚について・・・

この墳丘群は、古くから五位塚と呼ばれ、平泉藤原氏初代清衡公の父藤原経清と、その一族一党の墳墓と伝えられている。経清は、平安貴族藤原氏の一門で、宮城県亘理地方を支配した国府の五位の官人であったといわれ、亘理太夫とも称された。また経清は、当時奥六郡を支配していた大豪族、俘囚の長といわれた安倍頼時の娘を妻とし、江刺郡豊田館に移り住んでいた。

平安朝廷が、奥州経略のために派遣した陸奥守源頼義・義家父子と安倍氏の戦いが「前九年の役」であるが、この戦いで経清は初め朝廷郡の武将であった。しかし、中途から妻の父である安倍頼時に味方し、度々朝廷軍を打ち破る奮戦をしたが、最後は厨川の柵で安倍氏と共に討滅された(1062年)。

この付近には、豊田館を始め、八幡太郎義家の創建と伝えられる八幡社や白旗の池、また古代清衡道としての「東海道」の跡などの、多くの史跡が残されている。 (※現場の案内板より)

石段を上りきった場所に経清の墳墓があります。登り切った場所は裏側になりますので、正面に回ってみました。

以前はただの丘陵だったようですが、平成14年9月14日、この地に藤原経清公慰霊五輪供養塔が地元餅田地区の皆さんによって建立されました。

以後、9月17日の命日には毎年「藤原経清公毎日祭」が行われています。
石段を上ります
登り切ると墳墓の裏側に出ます。 一段と高い場所にある経清の墳墓正面。
正面から見た藤原経清公慰霊五輪供養塔。 斜め横から見た藤原経清公慰霊五輪供養塔、法要であげられた卒塔婆が見えます。
経清の大きな墳墓の上から左前方を見ますと、小さな丘状の土盛り(塚)が繋がっています。その配列は、経清の家臣が序列に従って埋葬されたようにも見えてきます。

以前に頂いた資料によると、峰伝いに大小60基以上もあるとのことですが、私が近くで数えてみると9基ぐらいか確認できませんでした。多分、この山全体にあるのだろうと思います。

経清と一緒に戦い破れた家臣団一族を、色々な想いを込めてこの地に埋葬したと言うことが分かります。
経清の墳墓から見下ろした小型の塚群。
丘陵状に整然と並んでいる塚。 別の角度から見た塚群。

下から見上げた経清一族の墳丘群です。 経清の墳墓から低いところに降りて見上げた様子です。3年ほど前に来たときは、松の木が密生し見通しがあまり良くなったのですが、計画的に間引きされたようにも見えました。

よく見ると、ここから南側に尾根伝いに歩ける通路がありました。
神塚・繰坂方面の案内表示

ちょっとした登り坂になりますが、神塚・繰坂方面の案内があり、神塚・・約100m先、繰坂・・約200m先と書かれてありました。

きつい坂道ではないので神塚まで歩いてみました。途中に明らかに墳墓だなと思われる塚がありました。峰伝いに60基あると言いますが、このような形で確認できるのでしょう・・。

この盛り上がった部分も塚の一つでしょうか。 案内板の文字は消えていました。
神塚、かつての鎮岡神社が鎮座していた場所。 神塚の案内板が腐って転がっていました。撮影するために杭の根元に置いてみました。

神塚・・・

往古・鎮岡神社跡地で、清衡公寄進・武具の一部を埋葬し、現在地に遷座と伝えられる。

現在の鎮岡神社は、この地の麓にあります。家に帰りながら寄ってみましたが、この神社も由緒がある古い神社でした。


以前に来たときは気がつかなかったのですが、墳墓と思われる塚のある場所から江刺の田園風景を見下ろしてみました。すっきりとした空模様でなかったので奥羽山脈がかすんでいますが、左側の様子は焼石岳を望む方向です。

また、右側の様子はさらに南の栗駒岳方向を望んでみました。この方向が藤原三代の栄えた平泉になります。すっきりと晴れ上がった青空の下の時に、再度撮影したいなと思います。墳丘群の上から江刺の大地を見下ろすと、かつてこの地に生活していた先人達の姿が浮かんでくるような気がします。

画面の中央にある橋脚は、東北新幹線の高架橋です。これから田んぼに水が入り、夕日が輝く情景が見られる場所になります。
焼石岳を望む方向 栗駒岳方向を望む方向