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          盛岡市・三ツ石神社


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御神体にあたる巨大な三個の石を後ろ側から見た様子。
岩手県内の夏祭り到来を告げる「盛岡市さんさ踊り」が8月1日から始まっています。今朝の新聞情報によると、33回目となる今年のパレードは午後6時に県公会堂前からスタートしました。ミスさんさを先頭に、盛岡市内丸通り(県庁前通り)1kmを沿道の観衆が見守る中を熱気溢れる踊りパレードが展開され、最終日の4日までに過去最高の242団体の参加があり、のべ34,500名(太鼓・笛・踊り)の参加がある・・・と言います。

また、盛岡さんさ踊り開会に先立ち、盛岡さんさ踊り実行委員会(会長・谷藤裕明盛岡市長)は7月21日、盛岡市名須川町の三ツ石神社で祭りの成功と安全を祈願し、さんさ踊りの奉納演舞を行った。神事には関係者ら約100人が参加。谷藤市長は「今年は33回目で『さんさ』の年。全国の皆さんに愛される祭りにしたい」と挨拶した。
(※岩手日報記事より)


盛岡さんさ踊り発祥の地として、また岩手の名前の発祥地の由来として知られる三ツ石神社です。境内にある案内板に次のような説明が書かれてあります。

伝説によると、昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民をなやまし旅人をおどしていました。そこで人々は、三ッ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい、境内にある巨大な三ッ石に縛り付けました。鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやって来ないことを誓ったので、約束のしるしとして三ッ石に手形を押させて逃がしてやりました。

この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源といわれ、又、鬼が再び来ないことを誓ったので、この地方を「不来方(こずかた)」と呼ぶようになったと伝えられています。鬼の退散を喜んだ住民達は幾日も踊り、神様に感謝のまごころを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源ともいわれています。(※三ッ石と鬼の手形案内板から)

三ツ石神社については2006年のほっづぎある記記事でも紹介しております。このページでは、御神体になっている巨石を重点にして作成しました。内容的に重複する部分もありますがお許し下さい。



正面からの様子・・・

名須川町の東顕寺裏に三石神社があります。ここまでの道路は狭くて車のすれ違いが大変ですし、神社には駐車場がありません。

正面の鳥居越しに、境内にある巨大な三つの岩石が見えています。実際には二個しか見えないのですが・・。三個目は奥に隠れています。

正面からの様子 1・・・鬼の手形の看板もあります。
正面からの様子 2 正面からの様子 3・・・社殿と巨大な石(花崗岩)

巨大な石 1・・・現場学習の中学生と巨石です。 境内にある巨石の様子・・・

鳥居をくぐり、正面の石を見ながら右の方へ廻ってみました。しめ縄と太い鎖の巻かれた大きな石が二つ見えてきます。資料によると、高さ6m、周囲約9m位の大きさだと言います。三つ目の石は、右側の石の後ろにあります。

6mの巨岩が立っているのですから、倒れないためには地下にも2m近く埋まっていると思われます。

たまたまでしたが、修学旅行中の中学生が自由行動での市内見学をしていました。石の大きさとの対比になるので取り入れてみました。

巨大な石 2・・・一番目と二番目の間が通ることが出来ます。中学生が何かを見ていました。 巨大な石 3・・・ぐるりと廻ると三個が並びます。
巨大な石 4・・中学生との対比で巨大さを表しました。 二番目に並ぶ石で、この石が一番大きなと思います。子ども達との身長差からも納得できます。石の色が何となく緑っぽく見えますが、日陰の部分はコケが生えているなと思います。
巨大な石 5・・・二番目と三番目を横から見るとくつかっていたように思えます。 さらにぐるりと廻ると、二番目と三番目の石が並びます。この位置関係ですと、一つの大きな石が縦に割れて二個になったと思われます。
巨大な石 6・・三個の石を後ろから見た様子になります。 三個の石を裏側から見た様子になります。上の画像の位置関係から割れたと想定しましたが、そうだとしても複雑な場面になります。

右側にある一番目の石が中央にあって、一個の巨石になっていた。元来は巨大な石の塊だったと言うことになりますが・・。

遙か太古の時代、何かの弾みで三個に割れて右側に動いた・・・、と考えるとつじつまが合うなと思います。

石の間から鬼の手形の絵を見る。 鬼の手形はいずこに・・・

二番目と三番目の石の隙間から、神社の壁に鬼の手形がこう見えますよ・・・と描かれた絵が見えます。さて本当に見えるのでしょうか。
手形がある部分なのですが??。

中央の石の神社側ですが、ここに鬼の手形が見えるのだそうです。社務所の壁に説明の図面がありましたが、私にははっきりとはしませんでした。

しかし、伝説によると手形の部分には苔が生えないと言います。中央部分の色が変わっていますので、ここかなとも思われます。

お参りに来る皆さんが、みんなで触るので色が変わっているのかも知れませんね・・。

石の隙間に埋め込まれた硬貨。 巨大な花崗岩の表面には無数の節理面(亀裂)が見られます。やがてここから風化が進み、いずれかの後には割れたり崩れ落ちたりすると思われます。

中学生達が夢中になって岩に触っていました。最初は気がつかなかったのですが、何だろと思ってみたら一円、十円硬貨が隙間にびっしりと埋め込まれています。

参拝に来られた方々が願いを込めて埋め込んだお賽銭とでも言えそうです。なんとなんと、中学生達の中に一人がほじくっているではありませんか。うーん、どうなっているのとおもいますね・・。


三ッ石神社由来・・・現場にあった石碑からの文章です。

岩手の呼び名について大和物語りによれば、「平城天皇の御代に、みちのくの国から鷹が献上され、帝はこれを岩手と名付けた」とある。俗説では、「三ッ石と鬼の手形」の物語が岩手の地名や不来方の起源や地名であるといわれている。

伝説によると、むかしこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の人々をなやまし、旅人をおどしていた。そこで人々は、三ッ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ッ石に縛りつけた。鬼は二度と悪事をしないし、また二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ッ石に手形を押させて逃がしてやり、それからこの手形のあとには苔が生えないといわれている。

しかし、長い年月がたっているので今ははっきりしません。この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれる。また鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を不来方と呼ぶようになったと伝えられている。

鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神様に感謝のまごころを捧げた。この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。「さんさ踊り」の名まえは、「さしあげ踊り」、つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとか、いろいろの説がある。

三ッ石はもと一個の大きな岩であったが、長い年月の間に三ッに割れて現在の三ッ石になったのである。

むかしこの地方「愛宕町、名須川町、三ッ割」を三ッ石野と呼んでいた。神社には少名彦尊、稲荷大明神を祀っており増産、医療、縁結びの神様として崇敬されている。

慶長四年十月二十四日(1599)、南部二十七代利直公が盛岡に城を移したとき、初代光行公のみたまを三ッ石神社に迎え、東願寺に五十二石を寄進されたのである。その文書は今も東願寺保存されている。

この大石の碑は三ッ石の割れた一部分で土中に埋もれていたのであるが、社殿新築にあたりこの場に移し由来文を挿入したものである。

昭和47年八月二十七日 社殿落成日 三ッ石神社奉賛会