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盛岡市千手院・撫でベコ
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盛岡市三十三観音第五番目の霊場である千手院(せんじゅいん)は、盛岡市鉈屋町にある市内唯一の天台宗の寺院です。私はよく分からなかったので、ネットで色々調べてみました。 現在の盛岡市鉈屋町にある千手院は、廃寺となった法輪院広福寺に伝わる仏像、絵など約三十点を引き継いでいるといわれる。千手院は盛岡市にある寺院のうち唯一の天台宗寺院である。 また、秋が深まると二度目のサクラが開花すると言われる「シキザクラ」が有名ですし、近くには盛岡三清水の一つである「青龍水」があると言われます。残念ですが、この名物の二つは初めて知りました。秋が深まり初冬を迎える頃、サクラの花を見て撮影したいと思います。 |
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撫でベコの実態が分からないまま、千手院を訪れて境内を探しましたが見つかりません。ひょいと建物を見たら、南蛮鉄 撫でベコさん 重量十二貫 本堂に安置・・・往昔野田塩を内陸部にもたらした物語を伝えている。交通安全・身体堅固に御利益があります・・・盛岡市寺の下 千手院執事と書かれた案内を見つけました。 |
二百年ほど前、盛岡千手院の境内に背赤の牛が気息えんえんとして倒れ込んだ。牛は塩の道から来たらしく、塩の空かますをつけたまますっかり弱り果てていた。そこへ、血相を変えた野田の牛方、清右ェ門が「この野郎のために塩が全部、中津川で溶けてしまった、ぶっ殺してやる」とどなりながら駆け込んできた。牛の首根は、低く垂れて土に着いたままであったし、口籠をつけたままの背赤の目は閉じたきりであった。 なだめに入った寓円和尚(千手院五代)は、「畜生でも仏門を頼って助けを求めてきたのだ」と諭し、「牛には何の罪もない、どんな牛方でも時には追い方の誤りがあるのではないか」と説教した。目を閉じたままの背赤は、思い出したように荒い息をする。生きてはいるが、あまりの弱りようだ。 寓円和尚の説教を聞いている牛方清右ェ門の頭は、次第に垂れに垂れていった。「もう駄目だ、お許し下さい」と主人に頼み込んでいる背赤の姿態が、清右ェ門の潤んだおぼろ涙の中に確かに見てくる。清右ェ門は自分の非を悟り、牛の背をなんどもなんども撫でてあやまったが、牛は再び生き返らなかった。 二百年もの間、このベコを撫でることによって、健やかなる子育てへの願いと、牛方道中ならぬ交通安全の願いを叶えてくれると言う。今、この撫でベコは多くの人に撫で愛され親しまれ、二百年の渋い黒光りの肌合いを見せている。頭を地にすりつけ、憐れみを乞うもの悲しげな肢体に引かれて、千手院に詣でる人が後を絶たない。 心願が叶うと、撫でベコの布団は新しくなる。美しいものが寄進されて、数多くの布団があったという。 |
本堂の薄暗いところに安置されている撫でベコでした。照明等もなく、詳しい様子がはっきりはしません。もちろん早速でしたが身体をあちこち撫でました。鉄の表面に焼きを入れたように見える部分、背中の上や角の端が長年の皆さんの願いにより皮膜が取れかかっていました。 |
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ほぼ真横からの表情です。語り継がれた撫でベコの文章を読み、じっくりとこの大きな目を見つめていると、二百年後の私でも牛の心が伝わるように思え、切なくなる気持ちになります。 |
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カメラの目線をほぼ同じにした正面からの画像です。疲れ切って息絶え絶えの背赤ベコの様子を、名人が心を込めて鋳造したものと言います。もの悲しげな表情が感じられ、大きな画像にプリントしたくなっている私です。座布団が四枚ありますが、願いの叶った皆さんの贈り物なのでしょう。住職さんもそのように話しておられました。 撫でベゴの撮影に気をとられ、肝心の由来についてのお話を住職さんからお聞きするのを失念していた私です。シキザクラの開花を見に行ったとき、改めてお話をお聞きしたいと思います。 二百年前、背赤の牛が倒れ込んだ千手院の阿弥陀堂は、現在の場所から離れた山岸地区にありました。現在は墓地になっていて、この墓地の片隅に道標があると言います。「右米内道、左野田道」と文字が刻まれ、左はそのまま小本街道に続く塩の道です。千手院を再度訪れて、盛岡に残る藩政時代の「塩の道」を検証したくなって居る私です。 |
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