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高舞台・・・

国宝:平安時代。舞楽が舞われると舞台です。舞楽とは、雅楽による舞踊のことで、陵王・振鉾・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が、今なお厳島神社で舞われます。

御本殿前に拡がる一段と高いところにあります。
高舞台 1
高舞台 2 この舞台は、天文15年(1546)棚守佐伯房顕が、高舞台の擬宝珠を奉納したことがわかります。高舞台は、四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台と共に日本三舞台といわれています。

立ち入り禁止なのですが、柵の所までは行けますので背金して撮影しました。立て札があり、・・・国宝 高舞台、平清盛公が伝えた優雅な舞楽がこの舞台で舞われます・・・と記されています。

海側に面したところに通路があり、その延長に大鳥居が見えています。
高舞台海側から大鳥居を望む。 高舞台海側から大鳥居を望む。平舞台の端を入れてみました。

平舞台・・・

国宝。高舞台に対し平らなところを平舞台といいます。寝殿造りでいえば庭にあたるところで、束石は赤間石で毛利元就の寄進といわれています。

右画像の中央付近が高舞台であり、その一段引くところの通路部分が平舞台になります。

平舞台 1・・・中央部分が高舞台で、左端が左楽房になります。
平舞台 2・・・奥に見えるのが能舞台になります。 上画像の左端の付近から見た平舞台の様子です。舞台と言うよりも通路なのですが、右端に少し写っている部分が左楽房と呼ばれ、舞楽のある時に楽を奏するところになります。

左右ありますが、舞楽には二つの流れがあり、インド・唐から伝わったものを左の舞といい、左舞を舞うときは左楽房で奏します。

舞楽は、平清盛によって四天王寺から約820年前に伝えられたもので、厳島神社で見ることができます。

能舞台・・・

国重要文化財:切妻造・桧皮葺

永禄11年(1568)毛利氏は、観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に設けさせ、能を奉納しました。現在の建物は、延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により造営されたもので、天神社と同じく、建造時期が下がりますので、丹塗りはしていません。

特徴は、日本で唯一海中に建てられている。切り妻造りであり、笛柱が独立している。海中にあるため、通常床下に共鳴のために置かれている甕が無いことです。代わりに、床下の根太が三角形で、その上に床板を張り、大きく響くように工夫されています。

毎年4月16日から3日間桃花祭神能が行われ、初日と2日目には初めに翁が舞われ、3日間とも五番立で、間に狂言が入り、江戸時代からの本式な演能を観ることができます。

平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材をできるだけ使用し、平成6年に再建されました。

能舞台 1・・・正面からの様子。 能舞台 2・・・左斜め方向から。
能舞台 3・・・右端と後ろの大鳥居。 能舞台 4・・・後ろ側からの様子。

反橋 [そりばし]・・・

国重要文化財、別称:勅使橋・たいこばし.

長さ21m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り。鎌倉期に既にあったが、現在のものは弘治3年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたものです。別名、勅使橋ともいい天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることができました。中央に階段を設けて渡ったものと思われます。

右画像は、神社から出た帰りに見た状態です。当然ですが立ち入りが出来ないように仕切られてありました。

反橋 1・・・廻廊から見た様子。 反橋 1・・・帰りの道路から見た様子。


ここからは、一方通行であった廻廊から出た厳島神社周辺の様子になります。時間的に制限があり、ホテルに戻りながらの参観になりました。


大願寺・・・

亀居山放光院大願寺は真言宗で、開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201〜1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。

大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で、厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。昔、参拝者は大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして厳島神社に参拝しました。厳島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。

石橋を渡ると、ここ一帯が大願寺の境内となります。早朝なので参拝者はほとんどありませんが、地元の方々がほうきを持って清掃をしています。

この一帯はとにかくきれいなのです。世界文化遺産地としての誇りなのでしょうか、さりげない挨拶等の仕草に感心しました。
大願寺境内入り口
平清盛公長男が手植えした老松。 小松内大臣平重盛公御手植松・・・

重盛子(清盛公長男)厳島辨財天の神徳霊験に感服し国家安泰家門隆盛祈願の為参籠の際境内に御手植になった老松・・。

ひょいと見た場所に、大きな枯れ木の古木がありました。説明を見て、うーんとうなりました。さりげない場所に、歴史の重みと現実を感じさせるものがあります。

大願寺正面 大願寺正面からの様子です。もちろんですが、中に入っての参観等はありません。

歩きながら目の前に枝振りの良い松の木が目に入りました。これは伊藤博文公お手植えと伝えられる九本松があります。

一つの根から九本の幹が出ていますが、九本写る角度を見つけるのが大変でした。それにしても見事な松です。
九本松の根・・・ここでは8本しか写っていませんが。 見事な枝振りの九本松。

厳島寶物館・・・

内部の見学はしませんが、右軒下にあった古木に目がいきました。よく見たら説明がありました。

厳島寶物
大鳥居の根元材 大鳥居の根元材・・・

現在建っている大鳥居は明治八年に建立されました。昭和二十六年大補修された際取り換えられた「楠」の旧根元材です。


後白河法皇永安四年(1174)御行幸松と書かれた古木の松がありました。歴史の重みがある年代物の遺物が、さりげなく置かれているのが大願寺の境内です。
後白河法皇永安四年(1174)御行幸松 1 後白河法皇永安四年(1174)御行幸松 2

五重塔・・・ 

高さ:27.6m、方:3.6m、応永14年(1407)建立 国重要文化財

桧皮葺で和様・唐様を融合した見事な建造です。内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。

その他壁板には、迦陵頻伽や鳳凰が極彩色で描かれています。特徴の一つに二層目で止まっている心柱があり、風に対して強い構造となっています。

本尊の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩は、明治の神仏分離で大願寺へ移されました。


下から見上げていますのでかなりゆがんでいます。

五重塔 1  五重塔 2

豊国神社(通称:千畳閣)・・・

国重要文化財。通称:千畳閣桁行41m、梁間22m、単層本瓦葺入母屋木造の大経堂。豊臣秀吉公が戦没者のために、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。

入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。

本尊の釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されています。

千畳閣 1 千畳閣 2


五重塔と千畳閣(屋根のみ)のある場所を遠望。

毛利元就ゆかりの地  厳島合戦跡・・・

1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。

平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)五月、島の宮尾に城を築き、陶の二万余の大軍をおびき寄せた。

同年九月三十日、元就は三千五百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。

この合戦で勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。(※現場にある案内板から)


ホテルに戻りながら、五重塔と千畳閣(屋根のみ)のある場所を遠望しました。撮影したのは七時半頃ですが、丁度小中学生の通学時間でもあり、行き交う子ども達が元気に挨拶をしてくれます。子ども達ばかりでなく、家の前を掃除している方々が「お早うございます」と気軽に挨拶をしてくれたことです。やっぱり世界文化遺産の地「宮島厳島神社」だなあと気づかされました。

私の近くにある「平泉の文化遺産」ですが、残念ですが平成20年7月に登録延期になりました。再登録に向けて官民一体となった取り組みが勧められています。平成23年7月頃の世界遺産委員会での登録決定を念願する一人でもあります。

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