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location:uchinome.jpトップ>心のオアシス>神社仏閣アラカルト>世界文化遺産・宮島厳島神社>その2 |
サイトマップ |
能舞台・・・ 国重要文化財:切妻造・桧皮葺 永禄11年(1568)毛利氏は、観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に設けさせ、能を奉納しました。現在の建物は、延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により造営されたもので、天神社と同じく、建造時期が下がりますので、丹塗りはしていません。 |
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反橋 [そりばし]・・・ 国重要文化財、別称:勅使橋・たいこばし. 長さ21m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り。鎌倉期に既にあったが、現在のものは弘治3年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたものです。別名、勅使橋ともいい天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることができました。中央に階段を設けて渡ったものと思われます。 |
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ここからは、一方通行であった廻廊から出た厳島神社周辺の様子になります。時間的に制限があり、ホテルに戻りながらの参観になりました。 亀居山放光院大願寺は真言宗で、開基は不明で鎌倉時代の建仁年間(1201〜1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。 大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で、厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。昔、参拝者は大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして厳島神社に参拝しました。厳島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。 |
厳島寶物館・・・ 内部の見学はしませんが、右軒下にあった古木に目がいきました。よく見たら説明がありました。 |
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大鳥居の根元材・・・ 現在建っている大鳥居は明治八年に建立されました。昭和二十六年大補修された際取り換えられた「楠」の旧根元材です。 後白河法皇永安四年(1174)御行幸松と書かれた古木の松がありました。歴史の重みがある年代物の遺物が、さりげなく置かれているのが大願寺の境内です。 |
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五重塔・・・ 高さ:27.6m、方:3.6m、応永14年(1407)建立 国重要文化財 |
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豊国神社(通称:千畳閣)・・・ |
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毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡・・・ 1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)五月、島の宮尾に城を築き、陶の二万余の大軍をおびき寄せた。 同年九月三十日、元就は三千五百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。 この合戦で勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。(※現場にある案内板から) |
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