神社仏閣アラカルトに戻る


          浅草・金龍山浅草寺

ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 ほっづぎある記 心のオアシス  

location:uchinome.jpトップ>心のオアシス>神社仏閣アラカルト>浅草・金龍山浅草寺

 サイトマップ


雷門入り口と両側の雷神・風神像。

浅草・浅草寺には、現職であった若い頃修学旅行引率で訪れたとき以来の訪問です。思い出してみれば昭和40年代ですから、45年以上前のことになります。当時の雷門迄の通路は、風俗営業のポスターやチラシで一杯であり、多感な中学生をがっちりと刺激した想い出が浮かんできます。

東北関東大震災発生5日前の3月6日、姪の結婚式に参加した帰りにスカイツリーを見学するために浅草寺に寄りました。あいにくの曇り空でしたが、地下鉄を降りたところから凄い人出になっていました。45年ぶりに訪れた浅草・浅草寺です。昔のことを思い出そうとしましたがはっきりとはしません。ただ、以前と違って若い外国人の方がかなり多いなあと思いました。


浅草寺・・・

『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。

観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが、公開されることのない秘仏のため、その実体は不明である。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。

さらに平安時代初期の天安元年(857年、天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。(※ウイキペディアより)



今回は、スカイツリー見学のための通過場所でもあり、詳細に観て撮影していないのが悔やまれます。



金龍山 浅草寺・・・

坂東札所十三番と書かれてある浅草寺です。文字通り読みますと「あさくさてら」なのですが、「せんそうじ」と読みます。江戸時代以前からのお参りの場所でもあり、当時の人々の信仰の対象として栄えていました。
坂東札所第十三番、金龍山浅草寺
雷門全景、左側に雷神、右側に風神の像が見えています。 雷門・・・

45年前の様相と同じで、修学旅行の中学生で賑わっていました当時と違うのは、ほとんでの生徒達が携帯電話を手にして撮影していたことでした。

かく言う私もカメラを手にし撮影しようとしましたが、人混みでカメラを上に構えないと背中ばかりを写しこむことになります。

左右にある「風神像」「雷神像」も撮影しましたが、近いところからですと保護金網が目立ち思わしくありません。
雷門シンボルの大提灯

雷門・・・

表参道入口の門。切妻造の八脚門で、向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから、正式名称は「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。

慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。

実業家・松下幸之助が、浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。

門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。(※ウイキペディアより)

浅草寺のシンボルとも言える雷門、この大提灯の下をくぐって仲見世参道に出ます。大提灯は格好の撮影ポイントでもあり、皆さんが記念撮影に夢中でした。


仲見世・・・

雷門から宝蔵門に至る表参道の両側には、みやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。

寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。


狭い参道には行き交う参詣者であふれています。東京土産がここには全てあると言っても良いようです。

仲見世 1
仲見世 2 仲見世 3
仲見世 4 すごい人出であり、カメラを上に持ち上げての撮影です。画像処理していたら、左上のお店に引かれました。いつもお土産に戴く「芋ようかん」のお店です。

撮影しているとき気がつけば買いましたね、残念でした。
仲見世 5 賑やかな仲見世通りを過ぎると、二番目の「宝蔵門」が見えてきました。

宝蔵門・・・

雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(二階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。

現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。
宝蔵門全景、入り口両側には仁王像があります。
宝蔵門入り口です。 宝蔵門をくぐります。頭の上には小舟町と書かれた大きな提灯が釣り下げられています。門の両側にある仁王像は撮影しませんでした。

門をくぐったら両側に大きなわらじが吊されてありました。それにしてもでっかいわらじです。
左側の大わらじ 大わらじ・・・

門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。

わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。
後ろから見た宝蔵門 宝蔵門を通りすぎて振り返ってみた様子、大わらじが両側にあります。二階部分は文字通り文化財の保管場所だといいます。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため、平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。

使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したもので、それらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。

本堂・・・

本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で、近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。

現在の本堂は、昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。
本堂正面遠望
本堂の前の香炉 本堂の前には大きな香炉があり、皆さん礼拝して煙を浴びていました。香炉から出たところで正面を撮影したのですが、線香の煙でかすんでしまいます。

仕方なく本堂間近から見上げて撮影しました。入り口までは撮影自由ですが、内部は撮影禁止であり礼拝したのみでした。

本堂内部も多くの人出で賑わっていました。
本堂正面、大提灯が下がっています。 本堂正面脇から
五重塔 五重塔・・・

五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つである。
 
浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。

徳川3代将軍家光により、本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失。

現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5m、塔自体の高さは約48mである。

基壇内部には、永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラダープラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置している。



曇っていたので五重塔の背景がすっきりとしません。別の場所に行ければ、地面からそそり立つ姿が撮影できたのかも知れません。

スカイツリー遠望 スカイツリー遠望・・・


境内からは、平成の五重塔ならぬスカイツリーが見えています。この時の高さは604mで、ここからは1,500m程離れたところに建設中です。

中央のふくらんだ部分が第一展望台(350m)であり、その上が第二展望台(450m)、その上がアンテナ等が設置されるゲイン塔です。

スカイツリーは真下まで出かけて撮影していますので、後日になりますが詳細を紹介いたします。