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一関市大東町大原・水かけ祭り
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自宅からR343を通過して陸前高田市に向かう途中に、一関市大東町大原地区があります。名峰室根山の麓の北側に広がり、人口16,000名ほどの農村風景が見られる場所でもあります。2月11日のことでしたが、350年の歴史を誇る、ふるさとの魂が燃える日・天下の奇祭「一関市大東大原・水かけ祭り」が行われ、3万人を超す観衆が訪れました。私も初めて訪れて撮影する機会に恵まれました。 天下の奇祭「一関市・大東大原水かけ祭り」は、明暦4年(1658)の昔から、毎年旧正月18日に行われてきました。この祭りの日が、今日のように2月11日(建国記念の日)になったのは、昭和四八年(1973)からです。みちのくの酷寒の季節、裸男に水を浴びせる行事は一つの驚異であり、それが奇祭と言われる所以であります。 この祭りは、明暦3年(1657)旧正月18日、江戸本郷丸山本妙寺(現・豊島区)を火元とする、俗に振袖火事と呼ばれる大火があり、江戸城天守閣まで焼失し、江戸の街が壊滅状態となったこの日を厄日と定め、火防祈願と火防宣伝の二つを兼ねた祭りとして始まったものと伝えられています。 後年、厄年の人々の厄落としが併せて行われるようになり、今日では、厄落としと諸々の安全祈願が主流をなすようになっており、さらに近年は、1年間の無病息災と大願成就を祈願しての参加者も多くなっています。先頭を切って走る厄男の持つ旗には「火防御祈祷」としたためられてあり、このことは、昔から一貫して火防祈願の精神が継承され今日に至っているものであることを物語っております。(※頂いた案内資料から) 祭り自体は午前9時から始まっていて、水かけが始まるのが午後3時です。全部を紹介すると膨大で大変ですから、祭り当時の町中と神社の様子、そして水かけの場面に限って編集して見ました。 |
大原八幡神社の境内入り口です。鳥居をくぐると立派な山門があり、今年奉納された新しい注連縄が飾られる作業をしていました。 |
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厄年の裸男の中には、特別の装束をした加瀬人(かせっと)と呼ばれる少年や幼児を同伴する人も少なくありません。この加瀬人の装束は、紺の反物に鋏を入れずに縫い上げた特殊な振袖に、厄年の人の年齢を大きく印して身にまとい、まんじゅう笠をかぶり、鳴子を背負い、しめ縄をつけ、頬を白布で包んだ姿は健気であり、凛々しい風情です。 現場で見た加瀬人はほとんどが幼稚園児でした。街のあちこちに可愛い姿が見られましたし、八幡神社の境内にも多くの加瀬人が訪れていました。あまりの可愛さに、訪れたカメラマンの格好の被写体になっています。私も側で撮影しましたが、正面に出て目線をもらう動作をしていませんので失格ですね・・。 |
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裸男衆の走り抜ける道路は500m程ありますが、道路の南側の家々の前に巨大な水槽や桶が置かれ、水が満々と入っています。 前日から用意されたのでしょうか、水面には薄氷が張っています。また、「水かけの必需品」と称してマーク入りのプラ桶が販売されていました。街中を歩く皆さんは、多くの方が手桶を持っていました。 |
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水かけ祭りの日には、地区内の集落から襦袢を着て女装した仮装手踊りや、古来より伝わる田植え踊りなどの皆さんが、家々を廻る門付けが見られます。 また、若者や小中学生による山車も繰り出すなど、町は祭り一色の賑わいとなります。 火防祈願の祭りということで、市消防団の纏組による纏振りの行列がありました。勇壮な木遣り節の後、はしごを鳶口だけで固定し、はしご登りのはらはらする技が演じられていました。 |
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