民俗芸能アラカルトに戻る


         遠野まつり・南部流鏑馬


ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 ほっづぎある記    

location:uchinome.jpトップ>暮らしの表情>民俗芸能アラカルト>遠野まつり・南部流鏑馬

 サイトマップ


馬場を横切る威勢の良い神輿の皆さん

開会宣言・・観光協会会長の馬場さんから。

沢山のお集まりを頂きまして、お天道さんも丁度良いお天気に、今日の日和をちゃんとしていただきました。皆さんのご協力に感謝申し上げます。

故郷遠野祭りの第二日目のお祝い、ただ今から名物と言いますか、遠野流鏑馬の競演を見ていただきまして、引き続き遠野郷土芸能の競演を、ただ今から開催いたしますので、ご声援を宜しくお願いいたします。

流鏑馬の馬場を横切る、威勢の良い神輿の行列です。



会場での案内から・・・

馬場では、二日目の最初を飾って長い歴史を誇る遠野南部流鏑馬が披露されます。それでは保存会の解説の下、流鏑馬の妙技をお楽しみ下さい。

本日この八幡宮において、由緒深き流鏑馬を挙行できますことを、会員一同心から厚く御礼申し上げます。ここで遠野南部流鏑馬の由来、並びに概要をご説明申し上げます。遠野南部流鏑馬は、元和元年八月十五日、遠野南部第四代の祖「師行」が、青森県三戸町櫛引八幡に奉納したのを創始とします。

この由来は、元寇の乱で、南部総本家の盛岡南部茂時が北条高時の滅亡に連座して鎌倉で討ち死にしたので、盛岡南部氏は一時失権し、新田義貞と共に鎌倉責めに功あった南部師行は、八戸に下向し南部領を統治しましたが、南部氏の氏神石引八幡宮は、盛岡南部氏の没落のため祭典等を緊縮していたのですが、南部師行はこれを復活し、鶴ヶ丘八幡宮の流鏑馬に習って施工したので、これが縁になったわけです。

さて、寛永四年遠野南部は八戸から遠野に移封を命じられましたが、その後もわざわざ三戸に出張して奉納してまいりました。南部直義は遠野に移転しましたが、当時、松崎町の八幡宮は後継者前領主の滅亡のため荒廃しておりました。直義は寛文二年これを現在の地に移して再建しました。その再建に櫛引八幡宮と同様に流鏑馬を奉納しました。この八月十五日には櫛引八幡宮、九月十五日には遠野八幡宮と明治にいたるまで年々施行していました。

こうした由緒ある流鏑馬も、解藩とともに廃れましたが、昭和二十八年保存会が発足し復活再興され、現在に至っております。

※テキスト文は、現場にて放送された内容をテープに録音し文章化しました。聞き取りにくかった箇所や、私の理解力
  の不足等から間違いがあると思われます。間違い等をお知らせ下されば幸いです。

馬場清めの神事を行う神官と行列 いよいよ馬場清め、馬場入りの儀が行われます。

神官は「さかき」を持って、馬場を祓い清めると馬場入りとなり、太鼓役を先頭に総奉行、乗出役、乗止役、そして射手奉行、介添奉行、的持役が3組その後に続き、矢拾役と、各々従者を従え列を作って入場する。その行列が馬場を一周する。(※ネット資料から抜粋)

直線コース220mの馬場に縄が3本張ってあり、走りながら矢を撃つコースと、戻る通路が区別されています。
総武行 総武行・・・遠野市長さん
乗出役、乗止役でしょうか 乗出役、乗止役の皆さんでしょうか・・?。
的持役 的持役・・・中学生でしょうか、ちょっぴり照れくさそうにしていました。的の大きさは、45センチ四方とのことです。


射手奉行の皆さん・・・左から「1ノ射手」「2ノ射手」「3ノ射手」の順番になります。
1ノ射手 2ノ射手 3ノ射手


介添奉行の皆さん・・・左から「1ノ介添」「2ノ介添」「3ノ介添」の順番になります。
1ノ射手 2ノ射手 3ノ射手


総武行姿の遠野市長さん

馬に乗った総武行姿の遠野市長さんと、挨拶要旨・・・

今、遠野はふるさとと言う四文字の中で、新しい遠野市の町作りを行おうとしております。その遠野市の関係者の皆様の熱気が、今日の天気をもたらしてくれました。

遠野の山々には神々が住んでおると言うことになっております。神々のご加護がありこのような天気になったとも言えます。

これからの数々の郷土芸能を、皆様と一緒に楽しみながら、日本の郷土故郷祭りを大きく盛り上げて頂きますことを、心から申し上げましてご挨拶と致します。

                         次のページへ →