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        山田町・岩手船越駅の今


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船越駅北側にある踏切と軽トラック。

私と岩手船越駅との出会いは昭和39年4月1日の事になります。内陸部の小学校から山田町船越中学校に転勤したときのことです。北上の家からオートバイで来たまでは良かったのですが、着任する中学校の場所がはっきりしませんでした。船越駅前で歩いてきた小学生に聞いた時のことでした。『船越中学校に行くにはどう行けばいいの?』、そのときの説明がなんと『おめさまなす、こう行って・・・』と言われ驚いたことを想い出します。船越地区での会話で、最高の敬語『貴方→お前様』だった事を知ったのは、生徒達と一緒に暮らしてしばらくしてからのことでした。

また、北上から送った布団等の荷物が届かないのでおかしいなと思っていたら、船越駅から電話があり『秋田の船越駅まで配達されて戻ってきた』とのことでまたまた驚きました。秋田県八郎潟の海岸側にも船越駅があることを知ったのはこの時からです。荷物の駅留め先の指定が、船越駅とだけ書いたのが間違いだったからです。今は宅配便等がありますので、間違ってもそんなことがありません。何しろ48年前のことですから笑えますが・・・。

3月11日に発生した大津波によって、海岸線を走るJRの線路は壊滅的は被害を受けています。山田町では、岩手船越駅は高い場所にありますので被害はないのですが、ここから北の方に位置する織笠駅は、線路・駅舎共に被災し跡形もなく流失しました。かろうじてホームの跡から分かるだけです。大津波による線路や駅舎の流失は、岩手県沿岸部では復旧はおろかJR線路の復活の可否すら論じられています。

大津波後七ヶ月を過ぎる今、JRとしての方策や国としての鉄道復旧のあり方について確定はしていません。復旧には巨額の費用負担が予想されますが、はっきりと年次計画の目処をつけるなどして地域住民の交通手段を確保して欲しいなと願います。

廃線同様(適切な表現ではありませんが)になっている岩手船越駅の線路内から見た北側の踏切です。この踏切を通らないと前須賀方面には行けないので、それなりに交通量があります。たまたまでしたが軽トラックが来ましたが、一旦停止をせずにそのまま通り過ぎて行きました。思わず止まらないの??と思いましたが、異議を唱える方が当分の間は間違っていそうです。


岩手船越の看板と上下線のホーム。 10月20日のことですが、釜石港岸壁に打ち上げられた貨物船の引き上げを見てから、平成4年から3年ほど生活していた大浦地区を訪れたときのことです。

懐かしい船越駅前で小休止していたら、駅舎は閉鎖されていましたがホームへの進入路が開放され、生活道路になっていました。

早速カメラを持ってホームに入ってみました。上り線と下り線のレールがそのままでしたが、レールが真っ赤に錆びており、ホームも草が生えています。線路部分は小さな草が生えていますが、それほど気になる程ではありません。管理されているのかなと思いました。
ホームの北側線路上からの眺め。 下り線のホームの北側まで歩き、レールの上に出てみました。本来ならばこんな事は絶対にできませんし、やってはいけない行為でもあります。ちょっぴり後ろめたい気持ちもありましたが、記録のためにと割り切って立ち入った私です。

見えている方向は、右側の駅舎と釜石方面になります。ローアングルで見ると、線路と枕木の間にもかなりの草が生えていました。
真っ赤に錆びている線路。 レールの接写です。真っ赤に錆びており、指で触るとざらざらしておいり赤い錆がついてきます。本来であれば、常時車輪で削られピカピカになっている部分です。

何年後かに線路として利用されるときが来ますが、その際は錆を取るために研磨するのでしょうか。それとも全く新しい線路を敷設するのでしょうか、そんなことを思っていました。
釜石方面の線路と切り替えポイント。 私にとってこの場所は、最高に想い出のある部分です。はるか奥の方に線路の上に架かる跨線橋が見えていますが、あの場所からホーム側を見ろすと上下線のSLが停車していました。

このシーンは、今となると懐かしいSLの記録となりかなりの方々から画像利用を申し込まれています。

ポイントの切り替えがそのときのままになっており、釜石方面からの列車の進入路になっています。ポイントから奥は、線路が分からないほど草が生えていました。