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    懐かしい木造校舎・稲瀬小学校上門岡分校


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稲瀬小学校・上門岡分校・・・

家から10分ほど車で走った北上市と接する場所に、かつての稲瀬小学校上門岡分校があります。かなり前に廃校になり、いつの時代に建築されたかは不明ですが、全くの木造校舎がそのままそっくり残され、現在では皀田公民館として地域の住民活動の拠点となっています。

国見山廃寺跡を訪れる時よく通りますが、小高い山の斜面に木造校舎までは入ったことがありませんでした。九月になりますが、地域の皆さんと散策しながら立ち寄ったのが上門岡分校の木造校舎でした。思わず子どもの頃の生活を思い出し、改めて訪れて撮影してきました。

今までのほっづぎある記は家から遠いところとか、由緒等があり有名な場所とかに限られていましたが、今回は家の周辺での新しい発見でした。

私の住む奥州市江刺区には、もう一つの木造校舎が残されています。宮沢賢治で有名になった映画・風の又三郎のロケで使用された木細工小学校(旧校舎)です。家からそれほど遠い場所ではありませんので、ほっづぎのテーマにしてみたいなと思います。


上門岡分校について・・・

今はどこの地区であっても、本校と分校に分かれて学習している現場はほとんど無い様に思われます。道路事情が良くなったことや、通学するためのスクールバス等が整備され何キロも長距離を通学することが無くなりました。昔の子どもたちは通学距離等に関係なく元気に通学し、無欠席皆勤賞等もありました。

・明治六年六月、上門岡小学校として菊池直三郎氏宅を仮校舎にあてる。
・明治十年四月、稲瀬村上門岡皀田に校舎を新築し上門岡小学校と称す。
・明治十二年十二月、校名を公立上門岡小学校と称す。
・・・幾多の変遷を経て・・・
・明治四十一年四月一日、稲瀬尋常小学校上門岡分教場となる。※上門岡分教場、単級、第一学年より第四学年に
                                          至る。
・・・戦後の教育改革を経て・・・
・昭和二十二年四月十日、稲瀬小学校上門岡分校となる。
・昭和四十六年三月二十四日、上門岡分校閉校、本校へ通学する。

※稲瀬郷土史より


きれいに整備され残されている木造校舎、左橋の壁には非常階段の跡が残っています。 校庭だった広場から校舎を眺めました。

新しい建材が入っていたのは、玄関部分だけでした。当時もこの玄関はありましたから、多分ガラス戸です。

教室は四つ、職員室等がありましたから、教室として使用されていたのは二教室位です。

きれいに整備されているガラス窓、毎日の掃除にはガラス窓拭きもありました。一階は良いのですが、二階は怖かった記憶があります。

戦前教育の求める人間像、二宮尊徳少年時代の像。 当時の学校には必ずあった、二宮金次郎の像です。

玄関の前とか校舎の入り口にあり、毎日姿を眺めて登下校しました。

戦前教育の否定から、ほとんどの学校では破壊され姿を消しました。

しかし、こっそり保存されていた金治郎像が、校舎の片隅に置かれる様になっています。

この像は戦後のものであり、寄贈者の名前が刻まれていました。
東側から見た校舎全景です。 東側から見た校舎全景です。玄関が突き出ていますが、以前の写真等を見ると玄関はこの場所でした。

校舎と並んで講堂(以前は体育館の言葉がありません)があったはずですが、詳細は不明です。

校舎をぐるりと回っていたら、おもしろいものを見つけました。右端のコンクリートの部分です。
子どもの頃を思い出す男子便所です。見たとか見ないとか、言い争いがよくありました。 草むらの中に見つけた朽ち果てたコンクリートの部分です。

このまますぐ回答が分かった方は、私と同年配です。

学校に限らず、人の住む場所には必ずあるものです。

あくまでも私の思い入れですが、男子トイレの残骸です。

よく見たら、仕切りになっていた柱の切り口があり、尿を受ける切り込みが残っています。