奥州市胆沢区水文化遺産・旧穴山堰・・・
今年は国体が岩手県で開催され、奥州市でも胆沢ダム下流でカヌー競技が行われました。胆沢ダム周辺の景観については、私のライフワークとも言える撮影でもあり周辺各所に足を伸ばしておりました。カヌー競技上になるダム下流の激流付近を撮影していたら、進入路にあたる場所に『水文化遺産旧穴山堰 岩手県周知居埋蔵文化財 穴山堰遺跡』の看板が立てられ進入ガイドが示されていました。早速でしたが、ガイドに従い入ってみました。
小高い斜面の上に進入路の仮設階段が設けられ、その下には『武兵衛穴出口』と記された大きな説明板が立てられていました。ここではその時の様子を撮影し、画像と資料を基に私なりに先人達の想いへとつなげてみました。
いつも見慣れている胆沢ダム堰堤直下、赤い矢印で武兵衛穴出口の表示がありました。初めて見る表示ですが、穴出口とあるからには、先人達が手掘りで掘削した水路だなあと思いました。米どころでもある胆沢平野の前身は、胆沢川が荒れ狂って造りあげた高低差のある扇状地です。当然のことですが、米作りに必要な水利が問題になります。
先人達は水利のために必要な水を胆沢川に求め、身を削りながら開発した血の出るような歴史があります。
胆沢ダム、石淵ダム、その前身ともなる大小様々な水路、開発者の名がつけられています。米作りは水路造りの歴史につながります。
茂井羅堰・・・茂井羅堰(シゲイラセキ)の名称については、元亀年間(1570〜72)に北郷茂井羅(モイラ)という女性が開削し たことから名付けられたという伝承があります。
寿安堰・・・寿安堰の開削は、元和4年(1618)で、後藤寿安が着工して、その後を古城村の千田左馬と前沢村の遠藤
大學が引き継いで、寛永8年(1631)に完成させたと伝えられています。
(※ネット資料から)
トップの画像は、土砂に埋もれている400年前の掘削穴出口の様子です。
武兵衛穴出口・・・
水文化遺産旧穴山堰 岩手県周知居埋蔵文化財 穴山堰遺跡 近世(江戸時代末期以降)以前の土木遺産
日本三大穴堰(隧道総延長約3km)
『武兵衛穴出口』は、旧穴山堰の初期の穴堰(トンネル部)の出口にあたります。平成11年10月発掘確認しました。約400年以上前からのものと伝えられています。
この場所は、穴堰の入り口となる七左エ門口から、下流約250mの一にありますが、その間の岩盤を掘り抜き水を流した当時の土木技術は、まさに驚異的と言われています。また、出口部分には平堰(開水路部)を固定したと見られる松丸太の一部が発見され、そこにも先人の知恵と努力が見られます。
※現場にある説明板より
2016.12.09 作成
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