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location:uchinome.jpトップ>2007年ほっづぎある記>岩手野田村・塩の道 |
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塩の道・・・、世界史で学んだシルクロードを思い出させる岩手野田村の歴史です。私にとって闘牛大会以来の課題であった塩の道「ソルトロード」は、時代を遡って調べれば調べるほど命の綱とも言える塩にまつわる史実でした。藩政時代陸中野田で生産された塩が、牛の背に積まれて北上山地を越え、更には奥羽山脈を越えて鹿角地区まで運ばれていることを知り、驚きと共に塩の道「ソルトロード」は「ベゴの道」という発見でした。 塩の道は人の道・・・ 野田村の海岸で焚かれた塩は、北上山地を越えて雫石や盛岡近在に多く運ばれ、穀物と交換されていました。この塩は、牛の背につけられて運ばれていたので「野田ベゴ」と呼ばれ、海のない内陸部の人たちは冬が迫る晩秋の頃ともなると、塩行商の野田ベゴが来るのを待ちこがれていました。 長くて厳しい東北の冬を越すには、塩漬けの保存食に頼る以外に手段がなかった当時の人々にとって、塩は野田塩ならずとも生活に欠くことのできない貴重なものでした。その命の塩を運ぶ塩の道は、牛が通るだけの狭い厳しい山道ながらも、海と山を結ぶ切っても切れない血潮の道であり、人の道でもあったのです。 塩の道は米の道・鉄の道・・・ 江戸時代の野田通りの海岸では、塩ばかりでなく、早くから鉄の生産が行われており、中国地方に次ぐ砂鉄の日本の二大産地として鉄山が各所にありました。このため、塩を煮る鉄釜が容易に手に入り、製塩の歴史を画期的なものにしました。 鹿田(しかた)、粗田(あらた)と言われた野田通りの農民たちは、生きていくための確かな家業として煮塩に精を出しました。それは、北上山地を越せば、塩一升が米一升に変わる価値のあるものだったからです。 (※野田道の駅で頂いた資料から) なお、野田塩の道について関心がおありの方は、NPO法人野田塩ベコの道をご覧下さい。 |
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夏の時期に限り、平庭高原から直接小国地区に向かう道路を走ることが出来ます。狭い道路なので、対向車に気をつけて走りました。 ほどなくして、小国地区の集落に入ります。ここで見かけたのが、「塩の道旧道入り口」と書かれた石柱です。車一台が通れるくらいの道が、奥の方まで続いています。内間木洞に向かっていたので、奥には入りませんでした。 |
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内間木地区から久慈市山根地区に入り、ここから野田の海岸まで峠を越して向かいます。冬期間は交通不能になる狭い道ですが、その頂上が白石峠になります。 奥の方に、「塩の道 白石峠 野田街道」と欠かれた柱が立っています。今でこそ完全舗装の道路ですが、当時は牛一頭がやっと歩ける険しく狭い道だったと言います。 この峠を下ると、間もなく三陸鉄道北リアス線・陸中野田駅、道の駅「のだ」に着きます。 |
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駅前にブロンズの「野田の牛方像」があり、リアルな表情の牛方と、塩を背に積んだ野田ベゴ、後ろには可愛い子牛がいて見とれてしまいます。 ここの道の駅には、野田での製塩に関わる資料の展示があり、野田村が編集刊行した「野田鹽 ベゴの道」の資料集が販売されていました。昭和56年の発行ですから、すでに26年前の事になりますが、内容を読んでいて、塩の道が一つのブームになっていると言うことでした。 |
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このリアルで可愛い表情が気に入っています。じっと画像を見ていると、私の心に野田の撫でベゴにまつわる話を語りかけてきました。※後日紹介予定です。 千年ほど続けられた野田の製塩は、明治38年に専売制が敷かれると共に終止符が打たれましたが、昭和になって太平洋戦争の末期と終戦後、自由製塩が盛んに行われたと言います。 終戦当時海岸に住んでいた私も、畳一枚ぐらいの鉄の箱で海水を煮詰め、赤茶けた色の塩を造る現場を見ながら登下校したことを思い出します。 |