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        二戸市・九戸城址を訪ねて


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本丸土塁の部分で一際高くなっています。両側に空堀が残されていて当時の面影を知ることが出来ます。

戦国時代武士の栄枯盛衰の姿を今の時代に伝えるのが各地に残る城跡です。私が住む岩手県では、盛岡城跡が盛岡市の中心地に石垣を残していますし、石垣等がなくても各地に城跡と称する場所が沢山残っています。栄枯盛衰と書きましたが、領地を拡げ生きるためには勝つか負けるかの血みどろな戦いの上での結果だったと言えます。

私が九戸城を知ったのはかなり以前の事ですが、実際に城跡を訪れたのは2007年の春先の事でした。たまたまですが、八戸の帰りにR4号を南下してきた事がありました。青森県から岩手にはいると二戸市があり、時間があったので九戸城址を訪れたのがきっかけでした。

4月から5月にかけて二回ほど現地を訪れて広い城跡を撮影したのですが、張り切ってHPで紹介しようと記事を書き始めて気になった事がありました。九戸城の盛衰について、詳細を知らなかったのでネットで資料収集してぎくりとなりました。秀吉の奥州仕置きは歴史上の出来事として知ってはいましたが、あまりにも悲惨な落城の事実を知り記事にする事を躊躇していた私です。

ここでは、城の歴史に必ず付きまとう悲惨な出来事を述べるつもりはありません。あくまでも風景の一部として、散策しながら撮影した城跡として紹介いたします。

画像等の具体的な解説文は、現地にある石碑に書かれた内容から転記しました。



九戸城址・・・

九戸城の歴史・・・
九戸城を九戸氏が居城としたことが文献に最初に現れるのが、九戸政実より4年前の九戸光政の頃(明応年間・15世紀)です。天正9(1591)年、城主九戸正実は南部26代当主の座を弟に擁し、田子信直と奥州南部を二分して争いました。信直が天下人秀吉の領地安堵をとりつけたことから、天下の謀反人として秀吉の奥州仕置軍6万余を敵に回しこの城にたてこもり戦う事となりましたが、仕置軍の策謀により落城しました。

その後、秀吉の命で仕置軍の軍鑑であった蒲生氏郷がこの城を普請し南部信直に渡し、信直は三戸城より移り福岡城と命名、盛岡城の築城が成るまで南部氏の本城として機能しました。


九戸城の特色・・・
城の形式としては規模雄大な平山城であり、占地縄張りには中世南部地方の城の特色が濃く見られますが、石垣を築き、虎口(こぐち)桝形の形態をとるなど近世的な特色も強く、中世から近世への過渡期の城であると言えます。特に石垣は東日本でも最古級であり、古式穴太積みの石垣としては最北のものです。城郭史の上では三戸城と盛岡城の間の時間に位置する南部本城であるとも言えます。(※現地にある石碑より)



広い城跡地域ですが、二戸市として保存している史跡九戸城跡の二の丸跡と本丸跡の様子を紹介します。最初に訪れたのは4月上旬のことでした。雨上がりでしたし、公園内は緑が全然ない荒涼とした様子です。城跡ですからその方が雰囲気的に良いのですが、雨模様になりレンズに雨粒が一つ付いたのを知らないで撮影していました。家に帰り画像を見てがっかりです。周辺についた雨粒ならば切り取り操作で削除できますが、なんと画面中央が白っぽくなっていて使用出来ません。

二回目は一カ月後の5月上旬、ちょうどお花見のシーズンでした。公園内サクラが咲き土塁に緑色が見えています。ここではその時の様子を紹介したいと思います。前回訪れたとき気がついていましたが、散策順路や見所には看板石碑があり、石碑には陶器造りの地図と説明が刻まれています。本気になって見学すると一日かかりそうですが、二ノ丸跡と本丸跡を画像にしてみました。

なお、現地にある説明以外は私が見た感じを文章化したものです。専門的な知識等がありませんので間違い等があると思われますがご容赦願います。

九戸城周辺文化財案内図 二戸市内の中心地から城跡へ通じる場所に、「九戸城周辺文化財案内図」が立てられています。本来ですとここから徒歩で散策するのが良いのですが、このまま大手門跡まで走り二ノ丸広場にある駐車場に車を止めました。
陶器に焼かれた現場地図 史跡場所には石碑が建ち、石碑にはその場所の説明と地図が貼り付けてあります。現在居る場所が赤い印で刻まれてあり、すごく親切な表示であると思います。

下の画像は、お花見シーズンのためでしょうか駐車場にある案内所に展示されているものを撮影しました。

左側は、享保九年九戸古城の図から切り取った二丸と本丸の絵図です。

右側は、九戸城鳥瞰絵図と書かれてあり、画面右下が本丸復元絵図です。
享保九年九戸古城の図 九戸城鳥瞰絵図


大手門跡石碑 大手門跡・・・

城跡は一段と高い場所にあり、周囲は土塁(崖)が延々と繋がっています。入り口になる場所に「史跡 九戸城跡」と書かれた大きな石碑がありました。ここからは緩やかな上り坂になります。
この道を上ると二ノ丸広場になります。 上り坂の様子ですが、通路の両側がこのような斜面になっています。この坂道を登ると二ノ丸の広場になり、駐車場が造られています。


二ノ丸跡・・・

三ノ丸を除くと城内最大の曲輪であり、本丸をL字型に囲む形をしています。本丸、松ノ丸と共に直線的な造りであり、本丸との間の空堀には石垣が築かれ、虎口は、信長や秀吉による全国統一が進行していた戦国時代末期(16世紀後半)の築城様式である桝形するなど、九戸城の中でも近世的な古式穴太積と呼ばれるもので、これらは九戸城落城後に豊臣秀吉の命により蒲生氏郷が行った城普請の際に築かれた可能性が指摘されています。

虎口(こぐち)・・・
虎口は城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される。古くは開口に木戸等の門を設け、両脇に櫓を建てて攻め手に備えるなど簡易なものであったが、戦国期に著しい発展を遂げ、城の縄張の重要要素となっていった。
(※ウイキペディアより)



一面の芝生が敷き詰められ、お花見シーズンでもありあちこちで散策する方が見られました。私の散策コースは、二の丸広場にある地形模型を見て本丸前の空堀を見学jし、東側にある入り口でもある虎口(こぐち)から一段と高い場所にある本丸跡に向かいました。

一面に拡がる二ノ丸広場 大手門跡から坂道を登ると、二ノ丸広場になります。右端の方に駐車場があり、駐車場からは徒歩で城内を散策です。お花見シーズンでもあり、サクラが満開状態でした。
二の丸広場南側にある地形模型 二の丸広場南側にある地形模型です。素焼きの素材で造られていますが、本丸周辺の土塁と、その前の空堀が一目で分かるようになっています。
広場を北側に進むと、北側と西側に延びる空堀が見えてきます。この場所は上の地形模型で言うと、本丸土塁の右側先端部になります。

木が生えている部分が周囲よりも高くなっていますが、当時はここに櫓が建てられていたようです。

下画像の左は北側に延びる空堀の様子で、右側は西側に延びる空堀です。この堀の突き当たりを右に進むと、本丸入り口になる虎口があります。

本丸土塁の右側先端部 1・・・空堀が左右に伸びています。
本丸土塁の右側先端部 2・・・北側に延びています。 本丸土塁の右側先端部 3・・・左側に伸びた部分
二ノ丸広場南端から本丸方向を望む 二ノ丸南端から本丸方向を望む。画面中央右が本丸入り口の虎口で、左に伸びる高い部分が本丸土塁になります。土塁の中に黒っぽい石組みが見えています。
本丸土塁の前にある二ノ丸石碑 本丸土塁の前にある二ノ丸石碑です。後ろには丸い石組みが見えています。後ろの高い部分は本丸になります。



本丸土塁跡・・・

石垣は東日本でも最古級であり、古式穴太積(こしきあのうつみ)石垣としては最北のものです。

土塁の中に石垣と思われる石積みがあります。崖全体の石積みでなく、部分的に丸く積んであるのが目立ちます。

蒲生氏郷が築いたとされますが、その当時の様子が伺われる最古のものとは知りませんでした。

右下の画像は、本丸虎口付近の遠望です。


本丸土塁跡にある石組み(古式穴太積み) 1
本丸土塁跡にある石組み(古式穴太積み) 2 本丸土塁跡にある石組み(古式穴太積み) 3
本丸虎口と側にある土塁の様子 本丸虎口と側にある土塁の様子です。人が立っていますが、右側から入り土塁にぶつかりここから右に曲がる構造です。
本丸虎口付近から見た本丸土塁の西側です。ここも周囲より高くなっていて、櫓があったようです。

左側の二ノ丸台地よりも、一段と高い右側の本丸台地になっています。
本丸土塁の西側
上の画像の突き当たりから見た、本丸虎口付近の遠望です。二ノ丸台地も土塁は石組みで固められています。 二ノ丸台地の土塁
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