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           宮古市・黒森神社

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黒森神社正面の扁額
宮古市黒森神社の存在を知ったのは、平成十九年六月に県民会館で黒森神楽の公演を見たときからでした。今年は一月三日の舞い立ち鑑賞に始まり、十一月の遠野八幡宮での夜神楽公演、十二月七日の舞納めの鑑賞と続き黒森神楽に明け暮れた年でもありました。

一月の舞い立ちに訪れたとき、宮古市の知人Nさんに黒森神社まで案内していただきました。そして十二月の舞納めの時に再度訪れてきました。舞い立ちの時の賑やかさとは違い、境内や神社には誰一人訪れる方がいませんし、がっちりと施錠されています。晴天の正午頃でしたが、境内はうっそうとした杉木立に覆われ昼なお暗い場所であり、手持ちの撮影はかなり大変でした。

樹齢三千年と言われる御祖母杉周辺は、ストロボを使用しないと撮影できないくらい暗くて熊でも出そうな雰囲気ですから、気の弱い人ですと一人で散策するには不安になりそうです。巨大老杉は前回も訪れて撮影していますので、今回はアングルを変えて撮影してみました。

ここでの説明には、現地にある案内板を参照させていただきました。


宮古駅から県道40号線を北上すると、右側に黒森神社入り口の看板が見えてきます。ここから入り大きな鳥居をくぐると神社までは一本道になります。しばらくして黒森山案内図と書かれた大きな看板が見えてきました。

黒森山は神奈備(かんなび)系神体山(低山・優美・分水嶺)、二千年前から閉伊全域の信仰の対象とされてきた山である。平安〜鎌倉期に神仏習合の影響をうけ、本地仏聖観音として定着し、人の世の苦難救済の本願所となった。室町期にその権現として獅子頭が奉納され、農繁期には毎年豊作を記念して村々を巡行した。現在二十数頭の獅子頭が保存(大半が県指定有形文化財)されていることは全国的にも珍しい。真言密教の祈願社として、南部藩主から篤く崇敬されてきた。

黒森山内図は資料に基づき(一部伝承)作成したものである。黒森山は、旧参道をお登り、いたこ石から「古黒森」に至る道中が素晴らしい。「古黒森」は黒森祭神の始まりの場で古墳と推定される。後年御本社旧殿跡、現社殿へと移転した。現社殿は嘉永三年(1850)の建立。(※現場にある案内板より)

紫陽花道路となっています。ここからは細い道路ですれ違いが大変でした。 入り口にある黒森山復元絵図。
比較的新しい袴石跡石碑 看板の側にひっそりと新しい石碑があり、「袴石跡」と書かれてあります。

袴石跡・・・伝説によれば、黒森御本社の御神体の袴部分が石と化したものと伝えられ、昭和初期までは正月と祭日には住連縄を飾り、参詣人に尊嵩されていた。
道路脇で見かけた山の神の石、かなり古く年代を感じました。 案内板からはは狭い登り道になります。ひょいと道路脇を見たら、「山神」と書かれた古い石碑があります。古い石碑になるほど、じっと眺めたくなるから不思議なものです。

「天照大神」と書かれた大きな石柱もありました。


イタコ石・・別名結界石で、昔はこの先が女人禁制だったと言います。 程なく車で行ける終点になります。ここに車を止めて参道の石段を歩くのですが、一月に来たときも気になっていた場所です。イタコ石・・別名結界石となっていました。

イタコ石(結界石)・・ これより先が神域(女人禁制となる)
当時、黒森神社は女人禁制のお山であった。何処より行脚の巫女来たり、女人禁制の当山に登らんとす。麓より銭橋をかけて登しが、村人その下山の遅きを怪しみて尋ねしに、このいたこ石の所にて銭橋絶え草履を残して行方不明となりしかば、村人憐れみてこ処に石碑を建立せしものなりと。

慶安三年(1651)造立。一尺八寸の石碑、文字などは流れて見えず。鉄橋・・道に銭を敷きて渡ること。旧道の峠より昭和五十年に移す。
石段の続く参道 1 石段の続く参道 2・・・かなり古い石段で歴史を感じさせます。
池の畔にある弁天堂 イタコ石から長い石段の山道を登ると、境内の下に池のある場所になります。この池は赤龍池となっていて、左側の社が弁天堂となっていました。

晴天の日中なのに、うっそうとした木立の中で暗くてストロボを使いました。舞い立ちの時は、この参道を囃子方が笛・太鼓・鉦を奏でながら登ってきましたが、風もなく静かすぎる場所になっていました。

境内の入り口には、樹齢千三百年の巨大な榧(かや)軒が見えています。


榧(かや)イチイ科・・・推定1300年くらいと案内板にありました。参道の入り口両側に巨大な木があります。一段目の境内には、昔の本殿跡に石が残っていますし、右側に潜水艦伊12号にまつわる石碑があります。一月の時には気がつかなかった場所でした。

画像にはないのですが、黒森山のモミの木・・・
モミの木の北限といわれている。黒森山の威光と千三百年の風雪にたえ、無限の大空に葉色をかがやかせ、異様は敬神の念を高め神秘で尊厳そのものである。おば杉は6000〜7000年位、境内の杉は1000年位、モミ、カヤの木は1300年位とのことであった。(※大阪市樹医 山の忠彦先生鑑定より)


現在の本殿はここの一段上になります。

弁天堂を過ぎて石段を登ると最初の境内になります。両側のカヤの巨木がすごいのです。 石段を登り切ると最初の境内になります。

海の男のロマンt電文の石碑
一月に来たときは気がつかなった石碑です。じっくりと碑文を読んでみると、太平洋戦争の地獄の中にも海に生きる男達の素晴らしいロマンがあったことに心を打たれます。しかも、米軍の帆船を助けた数日後、同じ米軍による攻撃で沈没と言いますから、戦争の悲惨さが想い出されじーんと来るものがあります。

海の男のロマン・・・
昭和二十年一月五日 連合軍の輸送船として航海していた美しい帆船パミール号の前方に 突如浮上したのが日本潜水艦であった 艦長はパミール号に停船を命じ砲をぴたりと向けしばらく双眼鏡で注視していたが やがて「本艦は貴船の美しさを葬るに忍びず安全な航海を祈る」と信号を発してそのまま海中に消えていった

そしてこの潜水艦は数日後乗組員百名とともに消息を絶った この日本海軍の潜水艦こそ伊12号であり 当時三十九才の艦長 工藤兼男海軍大佐である

  ・信号を命じた艦長 信号を送った通信士は川原田良一兵曹長であったと思はれる
  ・神々しい美的感覚と崇高な人間愛を感じる
  ・伊号12潜の鎮魂をこいねがいこの碑を建てる

     平成四年十月吉日
     工藤兼男 川原田良一を偲ぶ会 代表 摂待 壮一


   本艦は貴船の美しさを葬るには忍びず 安全なる航海を祈る
      昭和二十年一月
      伊号十二潜水
      艦長 海軍大佐 工藤兼男  宮古市鍬ヶ崎上町
      海軍兵曹長 川原田良一   宮古市山口五ノ十八   (※碑文の内容から)

艦長工藤大佐、川原田兵曹長の二人が宮古出身であることも驚きでしたが、川原田兵曹長がここ山口地区出身と書かれてあるのを見て驚いた私です。戦争は人間の生み出した最悪の悲劇であり、やるかやられるかの絶体絶命の場だと言えます。そのような絶体絶命の場にあって、例え敵艦であっても美しい帆船を魚雷で葬るに忍びなかった工藤大佐の崇高な人間愛と決断、本当に海に生きる男のロマンを感じます。この文章を書きながら当時の状況に想いを馳せらすと、工藤艦長の決断に涙が出てくる私でした。

終戦当時小学校低学年であった私も、潜水艦が来たと言っては裏山に避難したり、釜石市への艦砲射撃の音を聞いていました。当時のことですが、父親は小学校の校長で数百人の生徒の命を守る責任があり不在がちでした。近所に機銃掃射を受け小学生が死亡しています。六人の子どもを命がけで守ってくれた母ですが、その母も先頃天寿を全うし身罷りました。父親が残してくれた回顧録にありましたが、食糧難の時に道ばたの草まで勝手に採られなかったと言います。

私の戦争経験は、日本中に拡がっていた悲惨な戦禍から見たら話題にもならない小さな事です。やはり、二度と私達は悲惨な戦争に巻き込まれないような世の中を切望しますし、努力しなくてはなりません。世界中の悲惨な現状を見聞きするにつけ、安心して暮らせる世の中が一番幸せだと念じます。

帆船パミール号と伊12号潜水艦の説明 伊12号から発信した電文


黒森神社本殿

黒森神社・・・
悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189)四月、平泉の高舘において三十一歳で自刃したとされている。この史実に対し、「平泉で自害したのは実は家臣で、義経は北へ逃げ延びたのではないか」という説が、今も根強く残っている。

その伝説の一つに、「この黒森山は、平泉を脱出した義経主従が三年三月にわたって行を修め、般若経六百巻を写経し奉納した。黒森は、九郎森から転じたものである」と伝えられて居る。その般若経の一部が諸処に現存するという。(※現場の案内板から)

黒森神社本殿と獅子頭を祀ってある場所。 一月三日の黒森神楽舞い立ちの儀式は、この場で行われました。その時は多くの氏子の方や神楽衆、そして参観者であふれていました。舞納めではこの場所を使わないので、私一人だけの空間でした。

右端が歴代の権現様を祀っている場所です。十六頭の歴代の獅子頭が納められています。
薬師堂と薬師水の出口 薬師堂と薬師水の出口・・・

私は飲みませんでしたが、説明によると健康に良い水とのことでした。

薬師の水は、祖父杉・祖母杉を源としている。往古、山伏の禊ぎの滝(蚊龍の滝)があったと伝えられ、現在に至るまで薬師水(アルカリ性)として愛用されています。
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