政庁エリア・・・ ここでは、規模が大きくメインの会場にもなる政庁の様子を紹介致します。入場ゲートから入ると、政庁北部分と南部分に分かれて構成してあります。
平安時代後期の政庁は12世紀頃のもので、唐(中国)の影響を受けて正殿を中心に左右対称に建物が配置され、太い朱塗りの丸柱は格の高い事を示しています。
檜皮葺き入母屋造りの正殿と脇殿は回廊で(廊下)で結ばれ、高床式の倉を築地塀と揚土塀で囲んでいます。中央政権の権威を表した華麗な造りになっています。
源頼義の陸奥守着任・・・
1051年(永承6年)の鬼切部合戦で安倍軍に大敗した朝廷側は、安倍の力に脅威を覚え、それを抑えるために武将・源頼義を陸奥守に任じました。翌年5月、頼義は、3000もの武装兵を従えて国府多賀城に到着しました。
戦を避け、和議に持ち込みたいと考えていた藤原経Cは、頼義の着任を緊張をもって迎えます。頼義は、息子の義家を伴って下向していました。この時14歳だった義家は、後々まで陸奥と深く関わっていきます。
義経と清盛・・・ 義経にとって清盛は、父、源義朝を平治の乱で破った陛下の棟梁で義経にとっては父の敵にあたりますが、戦いの相手の一族はことごとく誅殺する当時の風習から考えると、義朝の遺児である義経を助命した清盛は、義経にとって命の恩人ともいえる関係です。 ・・・以下の本文は拡大画像でどうぞ。
弁慶となぎなた・・・ 実物大のなぎなたがあり、重さを確かめられるようになっていました。実際に持ってみませんが、かなり重そうでした。
弁慶・・・ 義経に生涯献身的に仕えた忠臣中の忠臣。 武蔵坊弁慶は、紀州出生説・出雲出生説があり現在もはっきりしていません。伝説では母親の胎内に18ヶ月もいたため、生まれた時には2〜3歳児の体格で、髪は肩まで伸び、歯も生えそろっていたと言われています。幼名は「鬼若」。 ・・・少し字が小さいのですが、以下の本文は拡大画像でどうぞ。
静御前・・・ 石見国磯野禅尼の娘で、京の白拍子(歌舞を生業とする遊女のこと)。 雨乞いをしている時に源義経の目にとまり、やがて愛妾となります。 ・・・以下の本文は拡大画像でどうぞ。
貴族の娯楽・・・ 平安時代の貴族の娯楽には教養としての詩歌、管弦をはじめ、室内娯楽の囲碁・双六・貝合、室外で楽しんだ蹴鞠などがありました。 ・・・以下の本文は拡大画像でどうぞ。
平安時代の軍装と武具・・・ 平安時代の戦は騎射戦(馬上から弓を引く戦法)が」主流であり、武具も騎射戦を想定して矢に対する防御を第一として発達しました。・・・・以下の本文は拡大画像でどうぞ。