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北上夜曲発祥の地から北上川堤防に出て、河川敷を見ながら流れに沿って下ってみました。堤防道路からは川の流れが見えません。かなり西側に入らないと流れのある場所には行けない様で、これは無理なので断念しました。

河川敷の茂み 1 河川敷の茂みの切れ目から、やっと向こうに桜木橋が見えてきました。

下の画像二コマ、左側はやっとみえた北上川本流と桜木橋で、右側はかなり近い部分の河川敷と桜木橋です。手前の方に細い流れがあるようですが、そこまでたどり着くのは困難なので諦めました。
河川敷の茂み 2 河川敷の茂み 3
河川敷の茂み 4 仕方がありませんから堤防土手に戻り、河川敷に入る個とが出来そうな場所を探して下流方面に進みました。

下川原渡舟場と川番所跡に向かう 1 堤防をしばらく進んだ場所に、車で入る事が出来そうな道路を見つけ道なりに進んでみました。周辺には畑があり、作物が植えられてあります。
下川原渡舟場と川番所跡に向かう 2 車で進むのが無理になり、ここからは徒歩になりました。道なりに進むとうっそうとした河川敷の茂みがあり、道らしき道路が見えなくなっていました。

下の画像がその周辺の様子です。中央部に何となく流れがある様な感じもしましたが、探索はしませんでした。
下川原渡舟場と川番所跡に向かう 3 下川原渡舟場と川番所跡に向かう 4
下川原渡舟場と川番所跡に向かう 5 畑の片隅を見た時、看板らしきものがありましたので近寄ってみました。

下川原渡舟場と川番所・・、と書かれた大きな看板がありました。どうやらこの場所が藩政時代の水沢地区への渡舟場であり、ここには川番所があったようです。

今はその面影等は感じられませんが、人々の往来を監視していた川番所があったと言うことです。

詳細は拡大画面でご覧下さい。
下川原渡舟場と川番所跡看板 1 下川原渡舟場と川番所跡看板 2

のどかな河川敷内の様子

のどかな河川敷内の様子を撮影してみました。

藩政時代は桜木橋は無く、この地に庶民による渡舟場が開設されていたと伝承されています。人々の往来は容易なことではなく、身分がはっきりした人のみが渡し舟で移動出来たと思われます。


看板の内容の一部を転記してみました。


下川原渡舟場と川番所・・・

江刺郡田谷村字桜木一三六番地、下川原舟場、その起源は不詳である。胆沢城時代、下川原は胆沢郡下河原の一角であったとされ、胆沢川河道もしくは、北上川河道の変遷により二分され、その時代も不詳であるが、庶民による渡舟場開設と伝わる。・・・以下省略。


川番所・・・

川番所も設置時期等は不詳である。藩境の要路と藩直轄の御蔵場舟運航路の要所として仙台藩は北上登米と、ここに川番所を設けて、舟の「川通証文」の確認と通行料の徴収をしていた伝承が残る。

郷土文化顕彰委員会 平成二十五年三月

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