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    江刺区田原・大田代城跡五十瀬神社


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坂道を登りきった場所に広がる神社境内

田原・大田代城跡五十瀬神社・・・

江刺ユネスコ協会会員研修として、今年の地域は田原地区になりました。すでに報告してありますが、「平和の鐘を鳴らそう運動」は、田原小学校18名の児童と寶城寺住職様のご援助により実施することが出来ました。

会員研修として、田原地区の生い立ちを探ることから、大山?神社とその奥の宮とも言える虚空蔵菩薩堂を見学しました。その後、中世時代の大田代氏の居城とも言われる大田代城跡(通称・五十瀬神社)を見学してきました。

五十瀬神社・・広く全国に分泌し、江刺区だけでも昔の行政区に一つはある様に思えます。人々の信仰心の表れと思えるのですが、ネット資料を検索しても詳細が不明です

トップのロゴ画像は、坂道を登りきった場所に広がる神社境内を切り取りました。


城跡入り口 居城跡への入り口はかなりの斜面であり、雨上がりとあってかなりぬかりました。最初はワイワイがやがやと歩いていた私たちも、次第に息切れが大きくなり、黙々と歩くのみになりました。

上り詰めることしばし、やっと頂上と思わしき平坦地になりました。
五十瀬神社境内 1 異口同音の感想ですが、「・・昔の殿様は何でこんなに高い場所に居城を作ったんだろう・・、どうせ自分では歩かないのになあ・・」と同じ感想を抱きました。

疲れると感想まで同じになるから不思議です。

今は居城跡に五十で神社が建立されています。それにしても立派な居城跡でした。神楽殿が造られ、神社後ろには奥の宮もありました。
五十瀬神社境内 2 五十瀬神社境内 3
五十瀬神社境内 4 城館跡(大田代城趾)と立派な標識が立てられ、少し離れて場所には石碑と大田代城趾の案内表示板が設置されていました。

五十瀬神社境内 5 案内表示板と石碑、碑文についてはちょっと読めませんでした。
五十瀬神社境内 6 境内南側の入り口にあった方向表示板です。かろうじて、正法寺 黒石・・・、入万館 小万館・・・の文字が読み取れました。

五十瀬神社 1 五十瀬神社本殿横からの斜めから眺めです。
五十瀬神社境内 2 五十瀬神社と墨書された扁額。

入り口の格子戸の間からのぞき込み撮影をしたら、立派な扁額が吊されてありました。昭和六十二年九月吉日の日付けが読み取れました。

天井裏には意味不明の記号でしょうか、何かが書かれてありました。分からないまま画像化してみました。
五十瀬神社境内 3 五十瀬神社境内 4
五十瀬神社境内 5 本殿裏には奥の宮が続いていました。途中の通路両側が囲われて中の様子は不明です。

大田代城趾・・・

この城は、中世大田代氏の居城であった。大田代氏初代伊豫・二代武重・三代武次が永正五年頃から天正十八年(一五〇八ころ〜一五九〇)まで八〇余年にわたり、ここを拠点として、大田代郷を統治するとともに、郡境のの警備につとめた。

大田代氏は、九州菊池氏の分流であるが、江刺氏よりこの地に知行をたまわり、在名により大田代殿と呼ばれたものである。

天正十八年、領主葛西氏の没落により、郡主江刺氏は分領を失い、南部領へのがれた。この時大田代氏も、一族をひきつれて、江刺氏と行動をともにした。

その子孫が大正三年、遠野市宮守町下宮守に「大田代家相業記念碑」を建立し、累世の遺徳をしのんでいる。

平成二十二年十二月吉日        田原大田代城跡研究会     

※現地に建つ説明板より



由緒・・・

大田代風土記御用書出には「伊勢大神宮たて 但地主別当金畑屋敷幸吉 宮壱間四面南向祭日三月十六日」とのみ出ていて、由来は不明。「たて」と言うのは大田代城のことであろう。

この城「仙台領古城書上」に「山城、東西一八間南北二十間、城主大田代伊豫」と出ている。明治五年(一八七二)大田代村村社に、更に神饌弊*社に指定された。神楽殿等、社堂が建つ境内からは、阿弖流為の居城跡と伝えられる大萬館山や、胆沢平野、奥羽の山波をを眺望出来る。         

※頂いた研修資料から

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