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    2019江刺ユネスコ・平和への祈り・玉里


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参道の石段とその奥に鎮座する大森観音堂の様子です。

2019江刺ユネスコ・平和への祈り・玉里

昨年に引き続き、江刺ユネスコ・平和への祈り・玉里地区探訪に出かけてきました。今年度の「第八回平和の鐘を鳴らそう運動」にあたり、玉里小学校児童と教職員、「大森観音堂」の別当さん、玉崎神社宮司さんのご援助により実施することが出来ました。なお、現地での解説等は、地域の歴史に造詣の深い玉里地区の会員菊池慧さんにお世話になりました。

13名の会員の皆様は玉崎神社駐車場に集まり、大森観音堂まで移動しました。最初に「大森観音堂」入り口下を流れる鹿股堰(かのまた)の説明を受け、その後、参道を歩いて大森観音堂を訪れました。別当の方の説明に少し怖いお話をお聞きし、身が引き締まりました。

その後最初の玉崎神社迄戻り、長い急坂の参道を登り玉崎神社まで移動です。かなりの急坂と距離があり、へばってしまった私です。ここ玉崎神社は義経北行伝説のスタート地点でもあり、宝物殿には寄進されたという社宝「源氏槍」が飾られてありました。

その後、恒例になっている平和祈願の鐘を鳴らすことになりますが、鐘楼が狭く危険であるため撞木(鐘突き棒)に綱がつけられ、下から引っ張って鐘を打ち鳴らすものです。参加した子ども達全員と、ユネスコ会員が願いをこめて鐘をならしました。私も綱を引いて鳴らしました。

トップの画像は、参道の石段とその奥に鎮座する大森観音堂の切り出しです。

                                                       2019.10.30 作成



広い玉里地区のふるさと探訪になりますので、玉崎神社境内関係、大森観音堂と鹿股堰の三カ所に分けて編集してみました。なお、平和願望に関わる鐘をならす運動は、玉崎神社境内に建立されてある鐘楼の下で綱を引いて鐘をならす事になります。


玉里地区の会員菊池慧さんのお話から・・・

これが鹿の股堰ですが、仙台藩の藩命によって開発したもので、60年三代かけて開発したものです。全長14kの水路で、当時は素掘り水路だった訳です。この水路からこっちの低い方が150ヘクタールほどですか、この水路を利用していることになります。

直線距離で500m程向こうの集落に新田(新しい田んぼという意味)と言う名前が出ています。この開さくは、玉崎神社の手前まで行っています。一番始めは米里寄りの方になります。

鹿股(かのまた)堰 1 鹿股(かのまた)堰・・・

大森観音堂境内前を流れる灌漑用水の堰です。資料によると慶長5年(1600)に仙台藩士鹿ノ股幸三郎幸盛が藩命を受けて、愛宕下の一ノ堰揚場から玉崎落合まで延長14kmに及ぶ水路の開削を開始。

5代目幸三郎が元禄2年(1689)に完成したと伝えられている。灌漑面積は152ha。鹿ノ股堰の開削は着手から完成まで60年以上を要した大事業であり、難工事であったため、大森観音を現在の場所にうつして祈ったところ成功に導かれたという。 ※資料から転記

鹿股(かのまた)堰 2 入り口で地域の説明をされている、玉里地区の会員菊池慧さんにお世話になりました。

大森観音入り口に向かって、左から右方向に流れる鹿股堰です。現在はコンクリートの水路ですが、当時は素掘りの水路であったと言います。
鹿股(かのまた)堰 3 鹿股(かのまた)堰 4


大森観音堂大鳥居 大森観音堂・・・

大森観音堂は『宝暦風土記』に「往古大森山大林寺跡」とある。大林寺は天台宗の寺院で嘉祥年間(848〜850)、慈覚大師による開基とされ、丈七尺(約210センチ)と言われる本尊の十一面観音は運慶の造像と伝えられる。

また、坂の上田村麻呂人首の大森山で討ちとった人首丸の」供養のため、山頂に建立した観音堂を参詣の不便と野火から守るために現在地に遷座した。
・・・以下省略。

下の画像左は別当さん、右は大森観音の由来文です。
別当様 大森観音の由来文
穴の開いた石が二基 1 穴の開いた石が二基・・・

うまい具合に手洗い鉢の様相に見えている二基の石、説明を見るとかつての鳥居の土台石とのことです。

別当さんのお話ですと、ここまで池から水を引いて手洗いにしていますとのことでした。
穴の開いた石が二基 2 石の由来・・・

石鳥居はいつかの地震により傾きましたので、この度解体の上、新たに基礎工事をし改修しました。

この石は、解体前の石鳥居の礎石で百何十年もの間地中にて石鳥居を支えていたのですが、役目が終わり地上にて第二の役目を果たすことになりました。
大森観音堂 1 大森観音堂・・・

鳥居をくぐり揃って観音堂までの散策です。里山地区はまだ紅葉にはほど遠く、これから日に日に色づいていくと思われます。

境内は一段上にあり、ちょっぴり石段を上ります。見えてきたのが観音堂です。普段は施錠されていますが、見学のために別当さんが開けてくれました。
大森観音堂 2 大森観音堂 3
大森観音堂 4

入り口が開かれ、中の様子が見えてきます。中にはどなたも入りませんが、入り口で拝んできました。

説明文を読んで、田村麻呂に討たれて滅んだ人首丸の供養のためのお堂との事です。お堂の中には小部屋が三つあり、そこへは誰もが入っていないとのこと。と言うより、どうなっているのか見た人はいないとのことです。

大森観音堂 5 観音堂巡りの方の落書があちこちに書かれてあります。上の段には、北海道の方の署名がありました。

大森観音堂 7

下の画像は失礼とは思いつつ、レンズの目で拝観です。崩し字ですから読めませんが、観音堂とでも書かれてありそうです。

別当佐藤さんのお話・・・

あそこに部屋が二つあるんですね。二十五年ほど前まではそこに部落の皆さんが集まって念仏をやっていました。今は中止になっています。

大森観音堂 6

その中に部屋が二つあるんです。そこは大変恐縮ですがあまり見ない方がよろしいのです。中を見た人は現在大森部落で二名か三名しかおりません。

何かミイラみたいなものがあると言うことです。その後誰も見ていないと・・、見たい方はもうダメだなあと言う方が・・保証は出来ません。何か包帯に巻かれた人の格好というか、どう言うもので出来ているのか私も分かりません。そう言う物が奥の部屋にあります・・・・。


怖い空間は、格子戸の中とのことでした。これにてご免です。

大森観音堂 8 観音堂の前でだんらんです。別当さんの怖い話し、どこまで進んでいたのでしょうか、関心があります。

観音堂の右後ろにあった心の池と書かれた表示です。狭い池があり、コンクリートの橋が架けられてありました。橋の奥には小さなお堂がありました。

心の池の由来等については不明です。解説があれば表示の意味が生きてくると思いました。
心の池 1 こころの池 2
『江刺三十三観音霊場』第四番札所

入り口鳥居の右側には、『江刺三十三観音霊場』第四番札所 大森観音堂 十一面観音 と刻まれた石柱が建っていました。

九基の墓碑があり、私の分かる碑文は『馬頭観世音』程度でした。

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