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     大津波被災地メモリアル・高田松原周辺


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在りし日の高田松原周辺・・・

高田松原は江戸時代の1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられた。その後、享保年間(1716-1736年)には松坂新右衛門による増林が行われ、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、景勝の一つであった。
(※ウイキペディアより)


しかし、2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震で発生した10メートルを超える大津波で、風光明媚な松林と砂浜が消滅しました。現在の様子は、大津波で松の木と砂浜が流失し、地震のために2m近く沈降し海面下になっています。

2003年12月14日撮影の高田松原海岸の様子。高田出身のタレント・千昌夫、村上弘明の看板の見える道の駅前の道路は、2005年9月10日に弟の及川正克が撮影した画像です。私は何度となくR45を通過し、道の駅にもよって買い物をしましたが、撮影はしていませんでした。

きれいな砂浜の海岸線。
道の駅脇の看板、「村上弘明のふるさと」。
道の駅脇の看板、「千昌夫のふるさと」。

2008年9月9日に訪れ、気仙川河口付近から見た水位調整門付近の様子です。この場所が松原海岸の端にあたり、ここから延々2km以上の砂浜が東側に延びています。撮影画像を見て特別気になりませんでしたが、水門奥にひょろりと頭が出ている松の木を見て「もしかして奇跡の一本松」と思いました。詳細は不明ですが・・・。

気仙川河口付近から見た高田松原 1
気仙川河口付近から見た高田松原 2
気仙川河口付近から見た高田松原 3
調整水門を撮影した後、巨大な防潮堤水門をくぐり松林に入りました。私の記憶に残っている半世紀以上も前の高田松原は、海岸から松の木越に海が見える場所でした。今は巨大な防潮堤があり何も見えません。津波防潮堤を通り松原内に入ると、うっそうと茂る松の木と整備された遊歩道が見えてきます。

高田松原海岸は、気仙川河口から東に2km以上も続く遠浅の砂浜です。夏の海水浴シーズンですと、砂浜がきれいに整備され海草だらけの状態ではないのです。

低気圧等の影響で海が荒れると、広田湾に面した砂浜に大波に乗って海草が沢山打ち上げられます。歌の文句ではないのですが、「今はもう秋、誰も居ない海・・」で波打ち際は打ち上げられた海草でびっしりでした。私が入った場所は中央付近です。ここから1kmほど先まで、生徒さん達の運動着姿が見えています。

広い海岸の波打ち際で、黙々と清掃活動に頑張っている生徒さん達がおりました。手にはビニール袋を持ち、拾っているのは海草以外のゴミです。元気な生徒さん達は、「こんにちは・・」と明るい声で挨拶をしてくれます。高田第一中学校全校生徒による奉仕活動の日とお聞きしました。

「全校生徒何人いるの?」「三百人です・・」。広い海岸線に三百人の生徒さん達が散らばり、砂浜と松林の中のクリーン活動でした。行き交う生徒さん達からは、「こんにちは・・」と元気に挨拶され嬉しくなった私でした。

学校教育のねらいに、地域に生きる逞しい子供達の育成があります。その目標の一つに、地域を愛する心の育成があると思われます。広大な高田松原の自然の中で、伸び伸びと活動する子ども達を見ていてそう思いました。

(※以前に書いたほっづぎある記の記事から)
松林の中の散策路。
砂浜東側、シーズンオフなので打ち上げられた海藻で汚くなっています。
砂浜西側 1
砂浜西側 2・・・大勢の生徒達が散らばって作業中でした。
一緒に行動した息子の撮影による画像です。砂浜には小さな山が作られ、ここで遊んでいた子ども達の歓声が聞こえてきそうです。最後の画像は、松林に露出ポイントが入り砂浜が白飛びをしています。松林は完全に密植状態であり、防風林の役目を果たしているのが分かります。
砂浜と松林 1・・・砂浜に小さな砂山が作れています。画面の左端が気仙川河口方向になります。
砂浜と松林 2・・・密生している松林が防風林の役目を果たしているが分かります。