石巻市立大川小学校・大津波被災の跡に戻る

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校庭の地面・・・

校舎もそうですが、地面に目をやるとガラス欠けや瀬戸物、木片やプラスチック等々、片 付けきれないで残っている細かい破片物等があちこちに散らばっています。

ほとんど片づけられているはずなのに、地面に埋め込まれている物に目をやるとまだ分かります。

何気なく歩いている校庭の部分、まだまだ被害の痕跡が認められます。拡大画面にすると、地面の様子がはっきりします。

比較的大きな布きれ等 は、悲惨な津波被害を物語る証拠でもあり気になりました。少しだけ引っ張ってみたのですが、これ以上は出てきませんでした。

細かい破片ですが、ガラス、瀬戸物、植木鉢、海から運ばれた物でしょうか貝殻も見えていました。

山のふもとにある慰霊碑 1 山のふもとにある慰霊碑・・・

校舎見学に来られた皆さんが、必ず参拝される慰霊碑です。校庭の端にある山際フェンスの下にあります。

慰霊碑には、津波で亡くなられた方々の氏名が刻まれています。黒光りの墓碑、参拝される方々の姿がはっきり写るほど磨かれていました。

慰霊碑の前には、ブロンズ製だと思いますが天使の像が飾られています。台座には「Angel of Hope」と刻まれていました。その後ろには大川小学校のプレートが埋め込まれていました。
山のふもとにある慰霊碑 2 山のふもとにある慰霊碑 3
山のふもとにある慰霊碑 4 心に迫る撮影禁止の表示

慰霊碑の前での写真撮影は、ご遠慮願います 
                             遺族一同



見学にきた途中で寄った私達も同様ですが、観光地化している慰霊碑になりつつあります。この地は大勢の方が亡くなっている悲劇の場である事を忘れること無く、冥福を祈る心、鎮魂の気持ちを失ってはいけないと思います。

気仙沼市・鹿折町に打ち上げられた大型漁船の場所にも同じような表記がありました。
山のふもとにある慰霊碑 5 校庭の端にある杉山、この場への避難を含めて色々論議があり話題になりました。今となると結果論になりますが、津波に襲われたことの無い場所での避難のあり方について、管理責任を担う教師であれば児童・生徒の生命第一の安全を考えて最善策を論じていたはずです。

現職当時の私も、海岸地域での学校管理者の一人でした。学校は児童・生徒の生命が最優先して守られる場所でなくてはなりません。もしもの場合、自分が置かれていたならばどのような対応をしたか、人ごとではない思いがしました。

慰霊碑の撮影は遠くからそっと撮影しました。・・合掌・・

北上川(追波川)堤防に沿って・・・

大川小学校跡から女川町に向かう途中、新北上川堤防を進みます。画像にして一分ほどの間ですが、対岸の景色の様子が右側に移動していく様子が分かります。

太平洋から5kmほどの場所であり、流れる実感が見当たらないほどのどかな風景です。あの日の大津波、波高が10m程になってこの場所を遡上し、堤防から溢れて大きな被害をもたらしました。
バスの窓ガラス越しの撮影です。画面が余計青っぽくなるのと、ガラスに反射した色変わりの部分が生じます。見苦しい部分は切り取りましたが、ご容赦を・・。
拡大画像にすると、大川小学校跡の近くにあった新北上橋が分かります。

堤防の根元には補強のためでしょうか、見渡す限りの間にテトラポットが置かれてあります。進みながら見たのですが、小型の漁船が何かを求めて漁をしていました。

ここの水深はどの位あるのでしょうか、興味があります。

おわりに・・・

バスの旅は石巻市街を経由し女川町まで向かいます。かなり前ですが石巻市や女川町まで車で来たことがあります。ひたすら国道45号を走ったのが記憶に残ります。南三陸町のヒマワリ畑、高台からヒマワリを見ながらの太平洋の景観は今でもがっちりと脳裏に刻み込まれています。

以前と同じ姿に復旧するのは無理としても、活気のあるかつての海の見える町並みに一日も早くなって欲しいと切望します。
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