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     三陸沿岸被災地 その2・高田松原跡


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取り残された防潮堤入り口水門と、すぐ側まで来ていた海辺。

6月8日・・・

天気が良かったので、奇跡の一本松を撮影するために気仙沼経由で高田に向かいました。気仙沼経由の理由は、気仙大橋の流失により対岸の気仙川河口に行けないからです。震災後初めて気仙沼市を訪れましたが、市内に入り海岸近くになるにつれて街の様相が一変します。瓦礫等はかなり片付けられてはいるものの、道路脇は依然と積み上げられたままになっています。

いつも買い物をしたお魚市場まで入ってみたのですが、岸壁には八戸市で見たと同じ火災で焼け焦げた漁船が繋がれていました。道路は良いとして、ガソリンスタンド等の営業は何時のことになるのでしょうか。岸壁には少なくなったとは言え、漁船がかなり係留していたし、漁具等が散乱し海岸特有の臭いが腐敗臭も混じりかなりきついのです。船着き場の方まで入ってみたのですが、かなりの場所が工事中であり作業する方々の目線が気になり引き返しました。

いつもの通りに海岸線沿いに走り45号に合流しようとしたのですが、一般車両通行止めの看板が立てられ作業車が頻繁に走っています。結局、45号バイパスまで逆戻りをするしかありません。バイパスの延長に唐桑に入る手前から三陸道が一部開通し、一気に陸前高田市方面に走ることが出来ました。途中にある海岸線近くの集落はほとんど壊滅状態でした。

ここでは、気仙川河口付近の様子、陸前高田道の駅周辺、そして、流失した高田松原跡の様子を紹介いたします。


気仙川河口の様子・・・

長部漁港に入る道の交差点に車を置きました。ここから奥にある長部漁港方面へは、緊急車両と工事車両しか入ることができません。

車を降りて道路伝いに河口まで出てみました。
気仙川河口周辺 1・・・R45号から長部漁港に入る交差点。
気仙川河口周辺 2・・・左側はR45号、瓦礫の山の後ろは気仙中学校。 正面には気仙中学校が見えています。海抜ゼロメートルに近い河口際にある学校で、広田湾からの大津波をもろに受け建物は残っているものの、三階立ての校舎を完全津波が通り抜けていました。

震災後だから言えることですが、何でこんな場所に校舎を建てのだろうと思いました。いつもであれば河口の側でもあり、広大な広田湾や東の方に見える高田松原がのどかな光景を見せていたはずです。

校庭は周辺から集められた瓦礫の集積所で、小山のように積み上げられていました。
気仙川河口周辺 3・・・校庭一杯に積まれた瓦礫の山と中学校全景。 気仙川河口周辺 4・・・校舎の拡大、大津波は校舎を突き抜けて破壊しました。
気仙川河口周辺 5・・・直進すると長部漁港に行けますが車進入禁止です。 高田松原方面に目をやると、古川沼の水位調整門がそのまま残り、その奥に見えるはずの緑の松原は跡形もなく消失しています。

あの砂浜は大津波で洗われて、そのまま市街地の方へと流出したはずです。砂浜と松林のあった場所は、波が打ち寄せる海辺になっていました。

資料によると、この場所は地震により1m以上も沈降したとのことで、巨大津波により長い防潮堤も完全に破壊されてしまったのです。
気仙川河口周辺 6・・・古川沼水位調整門 気仙川河口周辺 7・・・壊れた堤防と浚渫船。
気仙川河口周辺 8・・・奇跡の一本松。

調整水門の北側にあった「奇跡の一本松」です。数万本の内の流失しなかった一本だと言いますが、緑色の松の葉が茶色になり痛々しい姿で立っていました。

根元かららかなりの高さまで表面を覆い、なんとか生き延びさせようと懸命の取り組みをしています。

「奇跡の一本松」を撮影していたときのことでした。高田市役所の車に乗った方が二人お出でになり、一本松の付近の撮影をしていました。

後日談ですが、翌日9日付の岩手日報に一本松の特集記事がありあれれと思いました。ウチノメ屋敷トップページ画像を一本松の画像に変更していましたので、思わずにやりとした瞬間でした。

何しろ、 あの時一緒に「奇跡の一本松」を撮影して居られた方の記事のはずでしたから・・。

気仙川河口周辺 9・・・中央奥は流失した気仙大橋の橋桁です。仮橋が進められています。 流失した家屋の土台だけが残る場所です。大きな石が転がっていたのですが、はっきりと所有者の氏名が書かれてありました。

遠くに見えるのが流失した気仙大橋の橋桁です。現在この場所に仮橋を建設中でした。

気仙川河口から高田市街地に向かう・・・

気仙町側から高田市街地に入るには、高田バイパスに架けられた気仙大橋か旧45号に架けられている姉歯橋を渡らないと行けません。しかし、この二つの橋が大津波で流失しているので、気仙町側の狭い道路を北上し竹駒付近まで行かないと川越が出来ません。狭い従来の道路と堤防道路の交互通行なので、大型車両や救援物資輸送車両の通行は無理な状況になっています。

宮城県から陸前高田市に入るには、千厩地区か大東地区からR340の今泉街道を走り、竹駒付近でR340に合流しなければなりません。乗用車ではなんとか走ることが出来たので、竹駒地区を通過して高田一中の坂を下り市街地に向かいました。

前回の5月11日とは逆方向からの市街地入りになりますが、1カ月前と比べ瓦礫等はかなり片付けられていました。天気が良いせいか乾燥し、車の往来も多いので砂埃が大量に舞い上がります。酔仙酒造の側にあった大型タンクは撤去されていました。

高田松原道の駅周辺 1・・・道の駅高田松原、何度も訪れて海産物等を買いました。 道の駅付近の様子・・・

R45に出て空き地に入り撮影していたら、道の駅跡の駐車場に何台か車が止まり大型バスが駐車しています。立ち入り禁止の表示やロープ等も張られていないので、道路脇からそこに移動し駐車しました。

側にあるキャピタルホテルの南側まで津波に洗われ、海辺になっていたのには驚きました。満潮時に冠水しないように、R45号の海岸側に土砂を積む作業をしていたところでした。
高田松原道の駅周辺 2・・・五階まで津波に襲われたというキャピタルホテル。 高田松原道の駅周辺 3・・・古川沼に流れ込む水路でしょうが、今は海になっています。道路はR45号です。
高田松原道の駅周辺 4・・・道の駅の東側、ガラス窓等は全部ありません。 メインの建物しか残っていませんが、隣の建物は案内所やトイレがあったはずです。またケンカ七夕の大型屋台もありました。今は建物すら残っていません。
高田松原道の駅周辺 5・・・立木がもぎ取られていました。 高田松原道の駅周辺 6・・・コンクリート電柱も破壊されています。
高田松原道の駅周辺 7・・・道の駅南側の様子、イベント広場の階段途中まで津波が来ました。 メイン建物の後ろ側、今までこの場所に来たことがありませんがイベント広場になっていたようです。

正面階段の中程まで色々なものが流れ着いています。この部分は、大津波の直撃を受けて完全に破壊されていました。

道の駅の海側 1・・・キャピタルホテルに向かう橋ですが、途中でなくなっています。 松原跡へ・・・

バスの団体はどこかの視察の皆さんのようで、かなりの人たちがカメラを持ちあちこち撮影していたし、市役所職員と思われる方が丁寧に説明をしていました。

私にとっては願ってもないチャンスなので、一緒に行動し説明をお聞きしながらあちこち見てあるきました。説明によると道の駅付近は、津波の深さが10m以上はあったと言います。

この橋は途中で無くなっていました。
道の駅の海側 2・・・古川沼は海になっています。 道の駅の海側 3・・・松の木が一本もない元の砂浜。
皆さんは道の駅の海岸側から流失した松原方面へと移動していましたので、私も撮影しながら一緒に歩いてみました。

このような場所に入られるとは思ってもいなかったので、可能な限り色々なアングルから撮影しました。
道の駅の海側 4松原方面に向かう橋ですが、渡りきった先は海でした。
道の駅の海側 5・・・古川沼水位調整門と奇跡の一本松。 広田湾(太平洋に面している)から押し寄せた大津波は松原を押し流し、そのまま市街地に波が入り全部押し流して破壊しました。海岸線があちこち削られて海水が流れ込んで、古川沼は完全に1000年前(資料から)の姿と同じ海辺になっていました。

松の木は根元からもぎ取られて流失しています。松原方面への道路や古川沼に架かっていた橋も、途中でもぎ取られた形で流されていました。流されない部分には、松の木やゴミが大量に引っ掛かっています。
道の駅の海側 6・・・残された防潮堤の門 海岸線が直ぐ下まで迫っています。かなり沖合にコンクリートの大きな固まりが取り残されており、よく見たら扉が閉まったままの防潮堤の水門でした。

松原に入るには、この水門をくぐって海辺まで行ったことを思いだし唖然となりました。延々と築かれてあった防潮堤も、数万本と言われる松の木も跡形もありません。

私も皆さんと一緒に向こうの橋まで歩いてみました。
道の駅の海側 7・・・松の木でしょうか、流されていました。 道の駅の海側 8・・・被災前の現状は不明ですが、削り取られて波打ち際になっていました。
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