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     巨大津波・三陸沿岸被災地 その2


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釜石魚市場岸壁に打ち上げられた貨物船。

はじめに・・・

悪夢であって欲しいと誰しも思う、千年に一度と言われる大津波に被災した三陸沿岸です。あれから四4カ月を経過した今、被災地の各地では瓦礫の撤去を始め仮設住宅の整備等がどんどん進んでいます。復興への方向が少しずつですが見られる反面、現地を訪れ瓦礫等が撤去された住宅の跡を見るに付け、これからどんな形で以前の生活に戻れるのか不安になると共に、そこで暮らしている多くの方々の苦しみや悩みが見えてきます。

被災地の今と題して紹介したのは5月11日に訪れたときの画像ですが、その後、6月8日には流失した高田松原跡、6月16日には釜石市港町と大槌町浪板海岸、そして若い頃生活していた船越地区を訪れました。7月11日は、気仙大橋の仮橋の開通、同17日には釜石復興祈願・チャリティイベント夏の港まつりに出かけています。

7月17日に開催された釜石夏まつりは、「釜石の復興はここから」をスローガンに、尾崎町町内会の皆さんが立ち上げた夏の港まつりです。地域を挙げてのイベントを目の当たりにして、本当の復興はここからだなあと思いました。

道路を隔てた会場の近くには、かつての釜石魚市場があります。この魚市場は、未だに壊滅状態であり復旧の手が入っていません。岸壁に出るために壊れた魚市場の建物を通りました。日陰になっている場所には水溜まり、そしてコケが生えてぬるぬるして滑ります。かつての威勢の良い魚市場の姿は残骸しか残っていません。漁船が接岸する岸壁はコンクリートにひび割れが入り陥没しています。その東の方には、大津波で打ち上げられた何千トンもある貨物船がそのままになっています。

岩手県沿岸各地でもいち早く魚市場の復旧再建がなされ、三陸沿岸で収穫された水産物が水揚げされ賑わい始めています。釜石市はどうなっているのでしょうか・・・。当然のことですが漁業が再開され魚の水揚げがなければ、この地の活性化にはならないと思われます。

イベントの開会式で釜石市長さんが力強く挨拶されました。

再建が大変で困難なのは釜石市だけではありません。この地で生活してきた人々が、安心して暮らしていける地域の再建が、国レベルの構想と予算化のもとで一日も早く取り組まれることが望まれます。

今回のシリーズは、その後の被災地の様子を紹介しながら、頑張っている皆さんの様子や復旧しつつある今の姿を紹介することにねらいをおいています。前回とは違い、可能な限り車を降りて現地に入り記録してみました。

(※2011年7月20日最初のページ作成)


消滅した高田松原です。残っているのは防潮堤の水門。 高田松原跡・・・

高田松原は完全に消滅しました。学生時代から何度も訪れている想い出の場所です。

最初は防潮堤は無かったのですが、チリ地震津波を契機に巨大な防潮堤が建設され、道路からの展望は出来なくなりました。

画面に見えているコンクリートは、防潮堤の水門であり、ここを通って松原海岸に出ていました。

ご覧のように、今は何も無くなり海辺になっています。
岸壁に打ち上げられた大型貨物船 浜町周辺・・・

釜石魚市場岸壁に打ち上げられた貨物船、想像を絶する大津波のエネルギーです。

船底が平らなためでしょうか、横転せずに安定しているようにも見られます。道路には船首の下が出ていました。

ここでは貨物船の様子を紹介しながら、魚市場や港町の様子を紹介したいと思います。

その後、両石地区、鵜住居地区を通過し、山田町に向かいました。
沈降した浪板海岸 大槌地区・・・

両石地区、鵜住居地区を通り抜け大槌町内に入りました。特別な用事がないときは、ほとんどが大槌バイパスを通過していました。

前回は大槌町内を通過していませんので、しばらくぶりに目にした津波後の様子でした。

この画像は、片寄せ波で知られた浪板海岸ですが、津波により破壊されていました。

この付近も地震で1m程の沈降が見られ、遠浅の波打ち際が無くなりました。
倒壊した前須賀海岸防潮堤 山田町船越・・・


この場所は、船越湾の奥に位置する前須賀海岸です。昭和39年4月にこの地の中学校に赴任しました。

その頃からあった巨大な防潮堤です。広い砂浜にはワカメの口開けがあると、家族総出のワカメ干しがあり砂浜が一面に黒くなりました。

船越湾からの巨大津波は防潮堤を破壊し、ここから北側にある浦の浜に流れ込んでいます。

ここでは、山ノ内地区、前須賀海岸、田ノ浜地区の様子を紹介します。
焼け焦げた陸中山田駅 陸中山田駅・・・

津波で破壊され、火災で焼け焦げた山田駅です。

山田町の中心地にあるここから、かつての集団就職の生徒たちが故郷を離れていきました。

そのたびに同僚や生徒たちと見送った懐かしい場所でもあります。

ここでは、陸中山田駅の様子とその周辺を紹介します。
開通した仮橋気仙大橋と、橋脚のみが残った従来の橋です。 気仙大橋・・・

R45高田バイパスから気仙沼方面に向かう気仙大橋は、3月11日の大津波で橋脚を残して全部流されました。

ここから上流250m程にあった旧R45に架かる姉歯橋も同様です。

交通要所でもあった橋の流失は、人々の往来はもちろんのこと、救援物資や復旧作業に多大な支障がありました。

震災後、仮橋の建設が急ピッチで進められ、9月の完成予定でしたが7月10日に開通しました。
壊滅した広田漁港の建物と小型漁船。 広田地区・・・

大津波被災後、幼少時に住んでいた陸前高田市広田地区の様子を知りたかったのですが、被災後7カ月目にして訪れました。

黒崎神社例大祭で根崎はしご虎舞を撮影後、広田半島先端部をぐるりと廻ってきました。

広田漁港にある建物は完全に破壊され、瓦礫等はほとんど片付けられていましたが、岸壁の沈降で港としての機能を失っていること知り驚きました。
大浦地区小谷鳥海岸、長大な防潮堤が完全に流失です。 山田町大浦・・・

大津波被災後、七ヶ月目にして大浦地区を訪れました。

平成4年から3年間暮らしていた大浦地区には訪れる訪れる機会がありませんでした。

復旧工事車両や自衛隊の救援活動車輛の通行が多く、作業の妨げになることから遠慮していたこともあります。

七ヶ月を経過した今、大浦漁港は復旧作業が進んでいましたが、太平洋外洋に面した小谷鳥海岸は手が付けられていませんでした。
地盤沈下により満潮時には海水面と同じになります。 長部漁港・・・

厳しい冷え込み予報から目を離せませんが、この頃気になるのが被災地沿岸部での高潮注意報の事です。

ご存知のように、3月11日の巨大地震により太平洋沿岸部は至る所で地盤沈下(沈降)しています。岩手県のデータによると、沈降の一番大きい場所は陸前高田市長部港で、高田松原も沈みました。
津波で破壊され海側に倒れている防潮堤。

脇ノ沢地区・・・

長部漁港からR45を引き返し、高田バイパスから旧道である脇ノ沢海岸線道路に入りました。

この海岸線道路は津波で壊滅的に寸断され、今までは工事用の車輛以外は通行止めになっていました。

津波被災後、この場所を通るのは二回目になります。前回は広田黒崎神社例大祭に行く途中でしたが、急いでいたこともありじっくりと見て撮影する事ができませんでした。

シルエットで浮かび上がる復興の龍です。 岩井崎海岸・・・

お正月を過ぎた頃の新聞記事に目がいきました。気仙沼市の岩井崎岬に、大津波に流されながらも奇跡的に一部が残った松、その形が今年の干支である「竜」にそっくり・・・。

大津波に流されながらも、根元の幹と一部の枝が残っていることから「復興の松」と呼ばれているようです。

高田松原の一本松と同様に、奇跡的に残った松(部分ですが)を撮影するために3月14日に訪れて来ました。

大津波で陸に取り残された大型漁船。 鹿折地区・・・

7月10日、青空に誘われ気仙沼市・岩井崎を訪れました。

その帰り道、R45号バイパスの途中から市街地に下りてみました。

鹿折(ししおり)地区は大津波被災後初めて通り抜けましたが、以前あった賑やかな街並みは消え失せ、コンクリート土台が残るのみです。

陸前高田に向かう旧45号
の左側に、巨大な漁船がほぼ南北を向いてそのままになっていました。

「県立高田松原野外活動センター艇庫」跡から見た奇跡の一本松です。 奇跡の松・・・

8月20日でしたが、南三陸町歌津地区のヒマワリを見た帰りに一本松を見ながら走っていたら、何と、立ち入り禁止が解除されていました。

駐車場(空き地ですが)は他県の車が多く、遠い場所では京都ナンバーも見られています。お盆の帰省や夏休みの家族ドライブもあったと思われます。

念願の根元の部分まで行けますので、炎天下の砂利道を歩き、がっちりと周辺の様子を撮影しました。