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  三陸沿岸被災地 その2・陸中山田町大浦地区


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復旧工事が進む大浦漁港の様子

大浦地区について・・・

二度目になる山田町勤務(平成4年度〜6年度)のとき、大浦地区の住宅で3年間暮らしました。勤務校からはかなり遠かったものの、山田町としては最初になる水洗トイレ完備の新しい教員住宅でした。江刺の家からは二時間半ぐらいかかりますが、私は車で織笠地区まで通勤し家内はボート(連絡船)で対岸の町内まで用足しに出かけていました。

海岸の生活が初めての家内は、ボートの中から四季折々の山田湾を眺めていました。山田湾は海の十和田湖と例えられるほどすばらしい景観を見せてくれます。オランダ島と言われる大島や側の小島を見ながらのミニクルージングです。時々ですが、ボートと併走して海面からはね上がるイルカを見たこともあったようです。

平成23年10月20日のことですが、釜石港岸壁に大津波で打ち上げられた大型貨物船が海に戻されました。天候が良かったこともあり、釜石港から山田町大浦地区に向かいました。今まで何回もR45号を通過していたのですが、何故か大浦地区には立ち入らなかった私です。今回は、お世話になっている知人とお会いすることが目的でした。

3月11日の大津波被災地の様子を記録するため二回ほど浦の浜まで訪れていたのですが、自衛隊の車輛や復旧工事の車両等の行き来が多いうえ、狭い大浦街道を走ることを遠慮していたことが主な理由でした。

大浦地区は平成8年3月に山田を離れてから訪れていませんので、本当にしばらくぶりに海沿いの道路を走ることになりました。認識不足だったのは、あれからボート(連絡船)が廃止され陸路のバス輸送に切り替わったこともあり、途中までは普通の二車線道路になっていたことでした。海岸線に沿ったつづらおりの旧道は下の方にあり、狭い道を走った懐かしい想いが出てきました。


ここでは被災から7カ月経過した大浦漁港の復旧の様子、大浦地区の南の外洋に位置する小谷鳥地区の様子をまとめてみました。

トップの画像は復旧工事が進む大浦漁港の様子です。浚渫船でしょうか、海中にある瓦礫等を撤去していると思われます。以前はかなりの漁船が繋留されていましたが、現在はほとんど見られないのがさびしい限りです。



大浦漁港・・・

大浦地区に入り海沿いの道路を走りました。防潮堤は壊れていないものの、付近の家は何もなく土台が残るのみであった。あれから7カ月経過しているので、瓦礫等はほとんど片付けられています。行き止まりになる場所まで車で入り、そこから上の道路に出て霞露ケ岳神社を見ながら海岸に降りました。3年間生活していた教員住宅(漁村センター後ろ)に寄ろうと思いましたが、広場には仮設住宅が建てられ車が多かったのでちらりと見たのみでした。

防潮堤をくぐり岸壁道路に出てみました。岸壁の厚いコンクリートが破壊され、重機が入り撤去と埋め立て中でした。ほとんど瓦礫等は見られませんが、「撤去OK」とペンキで描かれた廃船が一隻置かれてありました。

※報道資料から
  山田町船越半島の山田湾側に位置し、ワカメやホタテ、カキの養殖が行われていました。漁協に登録されている漁
  船は230隻ほどあり、113隻が被災した。
大浦漁港 1 北側から見た大浦漁港の様子です。お昼頃で太陽が正面にあり、穏やかな海面に光が反射し光る海でした。

画像で見る限り、地震でそれほど沈降はしていないように思えます。

壊れた堤防や撤去されたコンクリートの塊がダンプで運ばれ、その場に積み上げられていました。また、すでに撤去が終わった岸壁には、コンクリートが打ち込まれる準備がされているようです。
大浦漁港 2 大浦漁港 3
大浦漁港 4 大浦漁港 5
大浦漁港 6 かつては砂浜でしたが、今はコンクリート製の須賀に変わっています。横木のように見えているのはプラスチックで、この上を滑らすようにさっぱ船を陸揚げします。

肝心のさっぱ船が見当たらず、さびしい限りの漁村風景になりました。青い部分は青のりで、満潮時にはここまで海水が上がることになります。

沖の方にはカツオ船でしょうか、生け簀から生き餌を積み込んでいました。のどかな風景です。
大浦漁港 7・・・カツオ船でしょうか、生け簀から生き餌を積み込んでいました。 大浦漁港 8・・・曳かれていく生け簀です。
防潮堤のレリーフ・・・

大浦地区の信仰の中心は霞露ケ岳神社です。3年に一度の例大祭、大浦地区をあげての祭典行事が繰り広げられると言います。

その時の様子をレリーフにし、防潮堤に掲げられてありました。私は残念ですが祭典を観たことがありません。

また、きれいな原色レリーフとして「山田の花 はまなす」も掲げられていました。いつ頃制作されたかは分かりませんが・・。
防潮堤のレリーフ 1
防潮堤のレリーフ 2 防潮堤のレリーフ 3
防潮堤のレリーフ 4 防潮堤のレリーフ 5
地震が発生したら・・津波への対処 おなじみの津波警報板です。あちこちで目につきますが、この色と文面の物はかなり前の物かなと思いました。現在ははっきりと分かりやすく、津波発生時の注意となっています。

表記の文字が小さいと読む方は居ませんね・・。

津波避難通路・・・

津波警報が発令されると、防潮堤(高さ7m位)の水門が閉じられ出入りができなくなります。非常時に使用する通路と言うことで(私の判断ですが)、防潮堤を越えるための階段通路が設置されていました。単なる階段ではなく、防潮堤の上に設置された大がかりなアルミ製の通路でした。

今まで気がつかなかったこともあり、ここに上り高いところから周囲を眺めてみました。津波で被災した跡地、岸壁の工事状況がはっきりと分かります。ここからの展望が素晴らしいと書いたら叱られそうですが、平常時は展望台としての広場等も設置されていました。以下、ここから眺めた様子をまとめてみました。


※平成5年頃のことになりますが、都内に勤務している息子が大浦の住宅に遊びに来ました。四方が海ですから、時
  間を問わずに海釣りをしていました。ある時のことですが、二人で湾内岸壁に夜釣りに出ていました。突然サイレン
  が鳴り、津波警報が発令されました。

  水門から遠くに居たのですが、気にすることなく「津波が来るの?・・」位の気持ちでした。突然、がちゃん・がちゃん
  と水門が閉まる音が聞こえてきました。昼間ならばともかく暗い夜のことですから、岸壁から出る道が閉ざされたら
  大変なことになります。慌てて釣り道具を片付けて戻った事を想い出します。

  そう言えば、湾内には下水処理場とがありましたがどうなったのでしょうか。仮に津波による被害があったとしても、
  ライフラインに関わることですからすでに修理等が行われているのかも知れません。
水門閉鎖時の非常通路 1 防潮堤の陸側には大浦漁協の建物があり、そこから浜に出られるように階段通路が設けられています。水門閉鎖時の非常通路(梯子階段)は各所で見ますが、これほど頑丈で安全に移動できる階段は初めて見ました。

通路には滑らないような資材が敷かれ、北の奥には展望ができる広場まであります。しかし、大津波はこの通路を乗り越え、アルミ製のフェンスが破壊しています。
水門閉鎖時の非常通路 2 非常通路から見た漁港 1
非常通路から見た漁港 2 漁港に沈んだ瓦礫等を浚渫船がさらっています。また、岸壁の分厚いコンクリートをはがし移動させていました。
非常通路から見た大浦漁協 大浦漁協の建物です。二階部分まで浸水し建物はそのままでもすぐには利用できないようです。

篭のように見えるのは養殖用の物であり、赤い玉は浮きに使用する物です。

ここから見える防潮堤内側の様子は、民家が流され土台のみがあるだけでした。
防潮堤の内側の様子 1 防潮堤の内側の様子 2
防潮堤の内側の様子 3 防潮堤下の道路周辺の家並みは大津波により流されていますが、そこより高い場所の家は難を逃れています。大浦にお住まいの知人からお聞きすると、真っ白い波が荒れ狂って襲ったと言います。

他の場所では押し寄せた津波は、海底のヘドロを巻き上げて真っ黒な波だったと言います。

下の画像は、南の方の被災地の様子になります。大きな建物は加工場のようにも思えます。
防潮堤の内側の様子 4 防潮堤の両側の様子・・・南側になります
破壊した作業場 建物骨組みだけを残し、窓ガラス等は完全に破壊され流失しています。

高い場所から撮影していたら、多くの人々が集まって指示を受けています。知人のお話ですと、大浦漁協女性部の皆さんが中心になり復旧作業が行われている。本当は私も出なければならないのですが・・、と話されていました。
作業に取りかかる皆さん 1 作業に取りかかる皆さん 2
破壊した岸壁コンクリートの上で談笑するお二人 壊れて流されてきた岸壁、厚さは30センチぐらいありそうです。その上に腰掛けて作業の段取りのお話でしょうか、世間話でしょうか、のどかに見える瞬間でした。

津波により破壊された厚いコンクリート、これが流されてぶつかったら建物や船などは簡単に壊れます。
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