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    三陸沿岸被災地 その2・気仙大橋仮橋


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仮橋の歩道部分から見た様子です。仮橋とは思えない造りでした。

2011年7月10日、大津波で流失したR45号気仙大橋の仮橋が、震災から四カ月目に完成しました。翌日の11日は天気が良かったので、仮橋を車で渡ることと実際に歩いてみたいという想いから出かけてきました。家から90分ほどで現地まで走ることが出来ます。

陸前高田市へは5月11日と6月8日に現地を訪れていますが、4ヶ月目になる今はかなり瓦礫の片付けが進んでいました。二回目の訪問は6月8日でしたが、奇跡的に残った一本松を撮影するために気仙沼方面から陸前高田市を目指しました。

未曾有の大津波で、R45号高田バイパスの気仙大橋は橋脚のみ残して流失しています。また、旧道に架かっていた姉歯橋も同様に流失し、陸前高田から気仙沼方面への交通網が寸断され人々の往来や支援物資の輸送に支障を来していました。

待望であった気仙川河口に架かる仮橋気仙大橋が完成し、7月10日に開通式が行われました。一般利用が10:30からというのでその前に儀式が行われたはずですが、9時57分、三陸沖を震源とするM7.3の地震が発生し現地は震度3の揺れがあり、同時に津波注意報が出されています。現場の混乱は大変だったと思われますが、開通時刻を早めての一般利用になりました。幸いでしたが津波は10センチ程だけで解除になっています。

トップの画像撮影場所は、完成した気仙大橋・仮橋の歩道を歩いて気仙町側を見た様子です。右側の橋桁は、大津波で橋桁部分が流失し橋脚のみが残った様子です。


2008年9月9日の気仙大橋・・・

たまたまでしたが、高田松原の様子を撮影するために訪れた時の記録からです。撮影場所は、気仙町側(気仙川河口)からの様子です。時刻は14:30頃でした。

上の画像は河口付近から上流を眺めた様子で、気仙大橋の下奥には旧R45号に架かる姉歯橋(トラス構造)が見えていました。下の画像は同じ場所から撮影しましたが、河口堤防と側に建っている気仙中学校の様子です。海抜ゼロmに近い場所に建つ三階建ての校舎です。

以前からこの場所を通りながら、海に近い中学校に勤務できたらなあと思ったものでした。海釣り、高田松原、そして河口のある風景に憧れたことを思い出します。


気仙大橋・・・

気仙大橋とは、気仙川に架かる橋梁である。岩手県陸前高田市気仙町字小渕と字木場とを結ぶ全長181.5m、幅員12.5mの橋である。 国道45号(陸前高田バイパス)の一部である。

橋の沿革・・・
1982年 開通。
2011年3月11日 津波により流出。
(※ウイキペディアより)

3年前の気仙大橋、奥の方にはトラス構造の姉歯橋も見えています。
河口堤防と気仙中学校を組み合わせました。


2011年7月11日の気仙大橋仮橋・・・

気仙川河口堤防(壊れていますが)から見た落成式翌日の橋の様子です。全長210.6m、幅が9mあり片側二車線の一般道路と同じ規格のようです。橋の北側には1.5m程の歩道が造られています。

本来は9月の完成だったと言いますので、かなりの急ピッチの工事のようでした。地域にとっても最高に待たれていた開通だと思います。

上の画像は、気仙中学校の校庭と校舎の様子であり、破壊された校舎と河口堤防を組み合わせてみました。仮橋の橋脚部は鉄骨構造であり、並んで見えるコンクリート製の橋脚は以前の大橋のものです。

下の画像は、破壊された河口堤防(補修されて大きめの採石で埋められている)から見た仮橋の全景です。


東日本大震災の影響・・・
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波の影響により、気仙大橋と上流の姉歯橋が流失する被害を受けた。この2橋の通行止めにより、救援物資を運ぶ大型車などがJR大船渡線に沿うルートで大幅に迂回する必要性が生じた。

通行止めの不便さを解消するため、気仙大橋の下流側に仮橋を建設することになった。なお、流失した本橋の再建には市全体のまちづくりとの調整が必要とされ、2011年4月現在、再建の見込みは立っていない。

仮橋の概要・・・
橋長:210.6m
幅員:9.0m
着工:2011年(平成23年)4月16日
完成予定:2011年9月末
工費:約7億円
(※ウイキペディアより)

瓦礫で埋まっている気仙中学校校庭と破壊された堤防。
河口堤防(震災後埋め立てられた)から見た仮橋の様子。本来は上の画像のように堤防なのですが・・・。

7月11日、気仙大橋仮橋・・・

住田町から竹駒、高田一中入り口の坂道を下り市内に入りました。前回訪れたときより瓦礫の撤去が進み片付けられていますが、工事トラックが土埃を巻き上げて走っておりかなりの車が走っていました。

R45号の交差点は丁字路ですが、信号機が作動し車の流れが整理されていました。ここから右折し気仙町の方へ進み、仮橋を走ってみた。取り付け道路は土盛りされているので、一気に坂道を上り仮橋に入ります。橋のレベルは流失前と同じで、北側には残った橋桁が立っています。気仙町側の降り口は少しカーブしていますが、降りていくと丁字路になって信号機が作動しています。ここから南に進み気仙川河口付近の長部漁港入り口に車を止めました。

車から降りた途端、強烈な臭いとともにハエがワーンと車に入ってきました。この場所はそれほど多くはないものの、被災地の場所によってはハエと蚊の大発生がみられ衛生管理上問題になっています。車から降りて気仙中や河口、対岸の古川沼水位調節ゲート、奇跡の一本松をみながら長部漁港入り口まで歩いてみました。臭いがかなりきついのですがハエはそれほど多くはありません。

河口から奥の方に仮橋が見え、その左側には気仙中学校校舎と校庭に積まれた瓦礫の山、高田松原の方向は砂浜が無くなり遠くには広田半島がすっきりと見えています。おだやかな海は、何事もなかったようないつもの表情で小さな波が寄せていました。

車に戻り仮橋を渡り、市内方向に抜けました。6月8日に車を止めた道の駅周辺に車を置き、そこから歩いてみようと思ったのですが、現場にはロープが張られ立ち入り禁止になっています。「満潮時に海水が上がるので危険です・・・」と表示されていました。これでは車を置けません。

どこかに止める場所がないかと探していたら、仮橋取り付け道路の海岸側に進入路がありました。この場所に車を置き、仮橋の歩道へと移動しました。近くには他県のパトカーが駐車しており二人の警察官がこちらを見ています。仮橋は、今まであった気仙大橋の南側(5mぐらい)に並行して架けられていました。橋の長さは210m位とのことですが、取り付け道路はかなりの土嚢で囲んだ中に盛り土をして作られています。


ここでは、仮設大橋に設けられた歩道(北側のみ)を歩きながら、流失した大橋の橋桁取り付け部分と橋脚の様子と、仮橋の様子について紹介いたします。撮影日が三ヶ月ほど前のことですので、現在の周囲の風景や瓦礫等の整備はかなり様子が違うと思われます。八月にはかなりの方々が現地を訪れて混み合ったと聞いています。

作成日:2011年9月30日

流失した気仙大橋・・・

仮橋の構造はきちんと歩道(流失大橋側)が整備され、フェンスで囲まれているので歩くのに心配はありません。

目線が高くなるにつけ、周囲の様子がはっきりと見えてきます。この付近の建物等はそれほど多くはなかったはずですが、建物等は何も残っておらず窪地に水が溜まり、松の木や鉄筋が沈んでいました。
歩道から見た周囲の様子 1
歩道から見た周囲の様子 2 窪地には水が溜まっていますが、取り残された海水でしょうか定かではありません。破壊された堤防から流れ込んだ海水(真水が混じった)かも知れません。
歩道から見た周囲の様子 3 従来の気仙大橋への道路は津波で流失していますので、大量の土嚢で土留めをしその中に土盛りをし新しい道路が造られています。

左奥に見えているのが仮橋です。

下の画像は、破壊された堤防(左側)とかろうじて残っている橋の入り口部分です。
歩道から見た周囲の様子 4 かろうじて残っている橋の入り口部分
高田市内側の橋桁と橋の付け根部分 1 R45号と橋の接点の様子です。高田市内側の橋桁と橋の付け根部分を見たのですが、無残にももぎ取られており目に痛く感じます。

橋脚はほぼ完全に残っており、ケーブルや配管、橋桁固定金具がぶら下がっていました。
高田市内側の橋桁と橋の付け根部分 2 高田市内側の橋桁と橋の付け根部分 3
川の中に立つ四基の橋脚。 歩道の北側には残された橋脚が4基立っています。河口から押し寄せた大津波の水圧で、橋桁は上流方向へと流されてしまい跡形もありません。

その瞬間は完全に津波に飲まれて水没していたはずですから、そのときの水圧はもの凄いものであったと思われます。

遙か上流には、姉歯橋の橋脚が三基残っています。トラス構造の橋桁は何も残っていません。
橋脚部分の正面から 遙か上流に見える姉歯橋の橋脚三基。
気仙町側の橋脚部分 気仙町側まで歩き、橋桁の基礎部分をじっくりと眺めてみました。すべて同じような壊れ方ををしています。未だに工事中であり、重機が二台並んで仮橋の取り付け道路の法面(のりめん)を固めていました。
気仙町側の橋の付け根部分、上流の堤防は決壊していますし瓦礫が残っています。 気仙町側の道路付近には町並みがあったはずだが、すべて流され潰れて傾いた大きな家がそのままになっていた。その他は瓦礫だけになり、大津波の破壊力のもの凄さを見せていた。
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