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    三陸沿岸被災地 その2・陸前高田市広田


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1m以上も沈降した岸壁です満潮時や高潮の時は周囲が冠水しそうです

10月9日でしたが、4年に一度の黒崎神社例大祭が行われました。神事の後に奉納される「根崎はしご虎舞」に惹かれている私は、大津波で被災した事もあり今年はどうなるのだろうと心配していました。当初は神事のみを行うと決められていたようでしたが、根崎はしご虎舞の皆さんが「地元を元気づけ全国の皆さんの支援に感謝しよう」と言う事から復興祈願と犠牲者の鎮魂をかねて開催されることになりました。

大津波後、幼少時の故郷とも言える広田がどうなったのか、自分の目で観て記録したいと思っていた私でしたが何故か訪れる機会がありませんでした。今回はR45号高田バイパスから従来通りの海岸線を走りました。道路脇にある見覚えのある建物等は一切流失し、道路も部分的には砂利道になっているところもありましたが、脇ノ沢地区を通り小友に入る所で道路を見失い迷ってしまいました。


黒崎神社例大祭と根崎はしご虎舞は別のページで紹介しますが、ここでは例大祭終了後に広田半島を廻ってきた様子を紹介したいと思います。なお、大津波被災後から七カ月を経過していることをご了承下さい。

この画像は、中沢浜海岸の岸壁部分が大地震により1m以上も沈降し、船着き場のはずであった岸壁が水没している様子です。広田半島も含めて、大地震で沈降した海岸線は漁業を維持する上で大変な支障が生じています。今後どのような形で海岸線の補修と復旧をするのか、地方レベルの問題ではなく国としての将来展望と復旧計画が問われてなりません。



根崎漁港・・・

11:40過ぎ、境内を出て広田半島めぐりをする。根崎漁港に入るが、昨年の鶴樹神社例大祭のことを思い出していました。浜辺にある防潮堤は決壊はしていませんが、陸側にあった作業小屋等が跡形もなく瓦礫の山でした。

堤防の上から見下ろして驚いたのは、岸壁の船を繋ぐ場所が海中になり一面に水没していたことでした。かなりの沈降であり、船を繋ぐ金具(名前が分からない)の頭の部分がかろうじて水面に出ているだけです。少なくても1m以上は沈んでいるはずです。昨年は小型漁船が何艘か繋がれていましたが、今年は何もなく廃墟になった感じでした。

広場には笹竹と注連縄が張られ神輿巡幸の場所が設けられており、やがて黒崎神社の神輿がこの地に巡幸して来るはずです。

テトラポッドに守られている防波堤はそのままでしたが、沖に面する灯台への鉄骨電柱が三基ぐにゃりと曲がっていました。水門や手すりなどが曲がっており、大津波をもろに受けたことが分かります。

広田半島最南端に位置する根崎地区にある漁港です。沖合にはウミネコの繁殖地として知られる椿島が見え、風光明媚な場所でもあります。

大津波襲来時のビデオを見ましたが、椿島の下のあたりまで水位が下がり驚いてしまいました。椿島だけを見ている限り、いつもののどかな大海原であり信じられない光景です。
根崎漁港 1・・・沖合に望む椿島。
根崎漁港 2・・・かなり海が荒れ波が高い状態でした。 防潮堤の上から撮影しましたが、天気は良いのですがかなり時化ていて、沖合からのうねりが堤防に打ち寄せ波飛沫が上がっていました。撮影している場所まで飛沫が飛んできます。
根崎漁港 3 堤防から目線を延ばしますと、堤防の陸地側には大津波で被災した建物などの瓦礫が寄せられていました。

堤防の外洋に向けてテトラポッドが無数に置かれていますが、外洋からの大津波をもろに受けたこの場所でどう動いたのか、目で見た限りでははっきりとしません。

昨年ですが、根崎集落に建立されている「鶴樹神社例大祭」があり、はしご虎舞が奉納されました。この堤防の上から手踊りなどを撮影したことを思い出しました。
根崎漁港 4・・・堤防を保護したテトラポッド。 根崎漁港 5
根崎漁港 6・・・鉄骨電柱が三基ぐんにゃりです。 堤防の先端部には赤い灯台があります。灯台まで電線が引かれていましたが、鉄骨の電柱がぐんにゃりと折れ曲がっていました。

堤防上に三基の電柱がありますが、同じような形で折れ曲がっています。この場所の大津波波高は10mを越していますので、膨大な海水の移動で折れ曲がりました。灯台は倒壊してはいません。
根崎漁港 7 堤防から見下ろした漁港の様子です。小さな画面だけですと砂浜のように見えますが、拡大してみると岸壁が沈降していることが分かります。

撮影したのが12:04で干潮時頃だと思われます。岸壁まで海水が上がり、船を繋ぐ鉄の杭が洗われています。満潮時になるともっと海水面が上昇すると思われます。

大地震による沈降は1m位はありそうです。昨年はこの場所に小型の漁船が係留していたのですが、これでは繋がれません。
根崎漁港 8 根崎漁港 9・・・沈降し波に洗われている岸壁。
根崎漁港 10 岸壁の上にある陸地分の色が変化していますが、満潮時にはここまで波が来ていると思いました。堤防側の付け根部分の舗装が壊れています。
根崎漁港 11 昨年はこの広場で鶴樹神社奉納の「根崎はしご虎舞」が奉納されました。車が一台止まっていましたが、何かの測定をしているように見受けました。
根崎漁港 12・・・右寄りに神輿安置所が見えています。

広場の様子です。中央右に笹竹と注連縄の結界が造られ、黒崎神社の神輿の巡幸がこの場所にやってきます。

壊れたさっぱぶねや流木もありましたし、鉄筋の瓦礫が積まれていました。

この地の防潮堤は決壊していませんが、大津波は外洋からもろにここを乗り越え、堤防内側にあった作業小屋等が跡形もありません。

鉄骨や木材の瓦礫が寄せられていました。

根崎漁港 13 根崎漁港 14
根崎漁港 15・・・鶴樹神社 海岸の正面には鶴樹神社が鎮座しています。

鶴樹神社は弘仁年間(809〜822)、真言宗開祖の空海(弘法大師)が巡錫の折り、この鶴樹の地に祠を建て、弁財天の木像を安置したのが創始とされています。さらに、仁寿年間(851〜854)、慈覚大師が螺鳴島(ほらなりしま)に上り、弁財天の祠を建てて鶴樹神社の祠から遙拝するよう定めたと伝えられています。※昨年の記事から

今までも三陸海岸は何度も津波に襲われていますが、鶴樹神社の御神体はどのように見ていたのでしょうか・・。

中沢・・・

集落名は中沢ですが、幼少時に住んでいた頃から中沢浜と呼んでいたので間違いそうです。大津波以前も心の故郷の原点を求めて、何度となく訪れている中沢浜です。小さい頃(63年前のこと)は海岸沿いの砂浜に背の高い堤防があり、その場所が道路になっていました。

昭和35年のチリ地震津波の後、三陸海岸の浜辺には高さ6m程の防潮堤が築かれており、車で通過しながら海の様子を見ることが出来なくなっています。中沢浜も同様であり、かつての砂浜が消え失せコンクリートの岸壁の延長になっています。
中沢浜・・・

道路から浜に出ようとしたのですが通路が見つかりません。やっと見つけて堤防沿いに南に向かいましたが、大きな水門があり閉鎖されています。

浜に出るには小さなくぐり戸があり、そこには「開けたら必ず締めて下さい・・消防」と書かれてありました。水門を越えるための階段があり、そこを登って堤防の上から浜を眺めてみました。階段についている手すりはぐんにゃりと曲がっています。


中沢浜 1・・・行き止まりの水門堤防上から見た様子。
中沢浜 2・・・突き当たり付近には、漁業栽培センターがありました。 中沢浜 3・・・巨大なバーナーが船に積まれています。
中沢浜 4・・・漁を終えた漁船でしょうか。 浜の沖合には幼少時から見慣れている防波堤があり、南側の切れ目の場所を泳いで渡ったことを想いだしていました。沖にある防波堤に父親がいたこともあり、怖いと思わず横断したことがあったからです。

今想えばかなり無茶な事でした。この場所は懐かしい想い出一杯の場所になっています。

下の画像は中沢浜の様子ですが、沈降による水位の上昇がはっきりと分かります。漁船等もほとんど見られません。
中沢浜 5 中沢浜 6
中沢浜 7・・・一段と低くなっている場所が水没ですが、ここも津波前は岸壁でした。 漁港の中に入ってみましたが、この場所もかなりの沈降が見られ根崎漁港と同じ状態になっています。何しろ船を繋ぐ鉄の杭の頭しか見えていません。


活気のあった広田漁港、完全に機能停止の状態です。いつもなら、多くの漁船が繋がれているはずなのに見当たりません。水没した岸壁に、中型漁船が繋がれて居るのみでした。
中沢浜 8・・・沖合の堤防と灯台。ここの岸壁も水没です。 中沢浜 9・・・岸壁が沈降し水中になっていました。
中沢浜 10 岸壁広場に積まれたアンカー代わりの砂袋(?)、そして定置網や浮き球等が置かれてありました。大津波で流失した定置網漁場を再建するため、整備している状態だと思われます。
中沢浜 11・・・定置網の浮き球 中沢浜 12・・・中沢浜貝塚方面を望む。幼少時に生活した所になります。
中沢浜 13・・・泊岸壁方面 中沢浜方面から見た泊地区の漁港です。正面の小高い丘には神社があったと思います。いつもなら漁船がずらりと並んでいたのが目に残っています。
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