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location:uchinome.jpトップ>ドキュメント>三陸沿岸被災地 その2>陸前高田市広田>2 |
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泊・・・ 小学生の頃の記憶から想い出しますと、泊地区には広田湾漁業組合があり泊港は岸壁が完備されていました。開業医の国枝医院では外科の手術を受けた記憶が残っています。また、広田湾の網元のお宅や漁具を扱う商店等があり賑わっていたと思います。そんな意味から泊地区は、漁業と商業の中心であると言えます。 広田湾漁協で記憶に残っているのは、小学校高学年の頃ですが布海苔の口開け等で全校児童が浜に出て、岩についている布海苔取りをしたことです。小学生が採った布海苔は、漁協のトラックが集めて歩きました。トラックと言うとこんな想い出があります。 当時の自動車はほとんどが木炭自動車でした。今この言葉を覚えている方は、私年代の方々だけだと思われます。釜で木炭を燃やし、その木炭に水を掛けて不完全燃焼をさせます。その時発生する一酸化炭素を燃やしてエンジンを動かしていました。当時の子ども達にとって、坂道を喘ぎながら走るトラックが遊び相手になり、掴まって乗るのがいたずらの極みでした。 ある時のことですが、漁協で購入したトラックがガソリンエンジンだという話しが伝わりました。マフラーから出る排気ガスの臭いを嗅ぎ、ガソリン自動車だと言う確認をしたことがありました。今ではあり得ないことなのですが、愉快な子どもの頃の想い出の一つになっています。話が横道にそれてしまいました。 泊地区をぐるりと囲んでいる防潮堤は、見たところでは決壊等はしていないと思いました。しかし、外洋からの大津波は防潮堤を乗り越えて漁協周辺の建物を壊滅状態にしています。先頃のNHK番組『あの日あのとき』の番組で、泊地区にある慈恩禅寺の住職さんが話しておられましたが、寺の境内まで津浪が押し寄せたとのことでした。 |
大久保・・・ 広田半島の中心地に位置し、役場や広田小学校、水産高校(戦後に中学校になる)がありました。当時の小学校は道路に面して校庭があり、校舎は校庭から高い場所にありました。食糧不足と言うこともあり、戦時中は校庭に馬鈴薯などを植えていました。校舎は正面に旧校舎があり、北側に新校舎があったと思います。その並びの高台には役場がありました。 小学校の校庭下には沼があり(確か天王沼だったと思いますが)、冬になると積雪がほとんど無い広田でも、がっちりと結氷していました。 広田中学校の方に降りて周辺を眺めた様子です。海岸方向に目をやると、六ヶ浦の砂浜に沿ってある防潮堤が西側の方で決壊し、そこから大津波が沼を含めて完全に破壊していました。防潮堤を乗り越えた大津波と、決壊した部分からの海水の移動で被害は大きくなったと思われます。 |
後花貝・・・ 私には大野浜という表現がすっきしりします。大野浜は、小友から広田にやって来て一番先に目にするきれいな砂浜です。しかも高い場所から俯瞰しますので、小学校二年生当時に見た遙か彼方の水平線の印象は今でも心に焼き付き、広田の原風景の一つにもなっています。 当時は防潮堤等は一切ありませんので、道路脇には松の木が生えており砂浜に続いていました。この浜にはちょっとした岩場が端の方にあり、犬かき程度の泳ぎ(水遊びの段階)しか出来ない私には、同級生の巧みな泳ぎや潜りに驚くと共に憧れたことを覚えています。 チリ地震以後に築かれた防潮堤は大きな壁になり、道路からは海や砂浜が見えなくなりました。今回は、広田から戻りながら改めてこの地域の被災の様子を見ました。防潮堤はそのまま残っていますが、外洋に面した場所なので大津波は容易に乗り越えて集落を飲み込んでいます。何も残らない壊滅状態です。 この集落には、父親の同級生で黒崎神社の神主さんの家があり数年前に葬儀に来たことがあります。神主さんの家も周囲の家も、本当に何も残ってはいませんでした。 |
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国指定 中沢浜貝塚・・・ この貝塚は、約6000年から2000年前の縄文時代早期末〜弥生時代初頭にかけての複合遺跡で、昭和9年1月22日文部省告示第6号をもって史跡に指定されております。この貝塚からは、縄文時代の人骨が多量に出土しており、考古学史上重要な遺跡のひとつとなっています。 わが国の歴史の正しい理解のため欠くことのできない重要な史跡ですから、みんなで大切に保存しましょう。許可を受けないで区域内の現状を変更したり、出土品を持ち出したりすると罰せられます。 昭和63年3月 陸前高田市教育委員会 (※現地にある案内板から) |
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