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松原大橋・・・

アスファルトが引き裂かれ、荒れた砂浜同様になった場所を歩き松原大橋まで来ました。砂浜は意外と固い状態で、靴がめり込むことはありません。

古川沼に架かった松原大橋を渡ると、名勝高田松原や海水浴場への入り口でした。
欄干手すりが無惨な松原大橋。
松原橋の行き止まり。

これ以上は進めない場所、橋より先は流失し海辺の崖になっています。

驚いたのは、根こそぎ洗い流されたとでも言えそうな松の木、名前は不明ですが太い木が転がっていました。どうなると根っこの部分がこのようになるのでしょうか。

比較的柔らかい砂混じりの土に生えていた松でしょう。何回も押し寄せる津波に揉まれて周囲の土が掘られ、細い根まできれいに洗われたようです。

宅地造成等でも根っこ掘りをしますが、こんな細い部分までは掘ることは出来ません。

松の木の根っこ、きれいに洗われています。 木の名前は不明ですが、これも根っこが残っています。
松の木が転がり、幹だけ残った松の木。 かろうじて残った防潮堤が見えていますが、海側に見えている松林の跡よりも低いようにも見えています。防潮堤が沈んだとしか考えられません。

流されなかった松の木は、根元の上から引きちぎられています。中央に幹だけ残った松の木が見えていますが、葉のない状態ですから枯れているのかも知れません。
遠くに奇跡の一本松が見えています。左の建物はユースホステルだと思います。 調整水門の後ろには、「奇跡の一本松」が見えています。数万本と言われた松の木の全部がちぎれたり流失しているのに、痛々しい姿でも無傷で残っているのですから驚きです。

松の葉が茶色になり枯れてきたように見えますが、7月中旬の新聞報道によると、新芽と幼い松かさが見られたと言います。地元の方の手厚い世話により、何とか生き延びて欲しいと思います。
ねじり取られた松の木 調整水門と幹だけの松の木。
見えていた地層 1

防潮堤の流失した場所からは、広田半島につながる海が見えていました。すごくきれいな海で、何もなかったようにいつもの姿を見せています。

撮影していて気がついたのですが、砂浜とは違う茶色の地層を見つけました。この場所は、気仙川から運ばれた土砂が堆積して作られた砂州のはずです。

資料によると、7500〜5400年前に形成された高田市街地になる沖積平野の地層なのでしょうか・・、関心がありますので調べてみたいと思いました。

見えていた地層 3 見えていた地層 2
破壊された防潮堤 防潮堤の基礎部分が見えていますが、このあたりは平均して1m以上沈降していると言われますので、崩落してそのまま沈み込んだのかも知れません。
松原大橋の海側、この先は流されて行けません。 松原大橋の海側から東の方を見た様子です。

非常用の水門だけが残った防潮堤の一部や、松原が流失したためにR45の市街地側にあった高田高校が遠くに見えています。

手前には市営松原球場もありましたが、照明の鉄塔が海に中に見えていました。
取り残された防潮堤水門部分、奥の方に野球場の照明灯が見えています。 遠くに見えているのは高田高校。
海辺になったキャピタルホテル。 古川沼沿いに建てられていたキャピタルホテル、建物の下まで海になっています。説明によると、5階まで津波に襲われたと言います。

画面中左には、ホテルに向かう橋が途中から流失しているのが分かります。

R45に出る・・・

高田松原跡を撮影してから。R45を大船渡方面に向かいました。道路の両側は瓦礫はかなり撤去されていますが、建物等は壊れたままの姿になっています。

この通りには色々な店等があり、高田を訪れる皆さんが楽しみにしていた場所でもありました。ほとんどの場所にロープが廻され、車すら置けませんでした。
鉄骨だけ残った店の跡
道路脇の土盛り 1・・・建物の上に瓦礫が残っていました。 道路の海岸側には、満潮時の冠水防止のために土盛りがされていました。道路下まで波が押し寄せる状態になっていますので、あくまでも緊急対策だと思われます。

今回も海岸経由での広田入りはできませんでした。残念ですが、涼しくなってから訪れてみたいなと思います。帰りながら、碁石海岸にも寄りましたが、かなりの場所が復旧作業中でもあり碁石浜を眺めて帰りました。
道路脇の土盛り 2・・・この奥に野球場がありました。背景の山は広田半島。 道路脇の土盛り 3・・・背景は気仙町側で水門等が見えています。

高田松原・・・

高田松原は、日本の岩手県陸前高田市高田町の海岸に設けられた江戸時代以来の防潮林であり、白砂青松の景勝地であった。2kmにわたって続く弓なりの砂浜に松林が形成されていた。その砂浜は、西進して広田湾で太平洋に注ぐ気仙川が形作ったものである。背後には氷上山が聳える。

国の名勝や陸中海岸国立公園の指定地域であり、また、様々な環境評価・施設評価の選定地となっている。2009年(平成21年)には104万人の観光客が訪れたが、2011年(平成23年)に発生した東北地方太平洋沖地震による津波に呑まれて松林は壊滅状態に陥った。

古くは気仙川の砂が広田湾に堆積した、ただ草が生えるだけの砂浜であった。寛文7年(1667年)、高田の豪商・菅野杢之助(かんの もくのすけ)がクロマツを植栽し、仙台藩と高田住民の協力を得て6200本のクロマツを植林した。その後、享保年間(1716〜36)には松坂新右衛門による増林があった。

以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林であり、景勝の一つであった。その白砂青松の景観は世に広く評価されている。

高田松原は大津波に何度も襲われてきた。近代以降で代表的なものとしては、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸大津波、1933年(昭和8年)3月3日未明の昭和三陸大津波、1960年(昭和35年)5月24日未明のチリ地震津波(高さ6m)。そして、2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震津波に第1波が到達。高さ10m以上の津波により、ほぼ壊滅状態となった。

チリ地震津波による被害を受けて、防潮機能の強化が進められた高田松原と古川沼であったが、平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う津波によって、高田松原は壊滅的な被害を蒙った。波高10mを越える津波は二本の防潮堤を破壊し、高田松原が形成されていた砂州自体、多くの部分が海に没してしまった。その結果、古川沼は広い範囲で海と繋がり事実上海の一部となってしまった。(※ウイキペディアより)


今回は偶然の機会だったのですが、入られないはずの流失した松原跡へ入ることができました。7月11日の気仙大橋仮橋開通時にも訪れたのですが、現場にはロープが張られ立ち入り禁止になっていました。理由は、満潮時や高潮の時に冠水する恐れがあるので危険です・・・、と書かれてありました。

今後現場に立ち入るにしても、特別の許可がなければ一般人は立ち入りは出来ないと思われます。何しろ進入路付近には、他県ナンバーのパトカーが常時駐車して監視しているからです。

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