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閉会式挨拶から・・・

刈り取り行事が一切終わってから閉会式が行われ、それぞれの代表の方から感想を含めた挨拶がありました。ここでは挨拶を述べる皆さんの表情と、挨拶の内容を抜粋で紹介いたします。

挨拶は、小学生代表、米寿の代表の方、実行委員長の皆さんからありました。子ども達の前には参加された米寿四名の皆さんが座っており、そのベンチの横には成長した「陸羽132号」の大きな稲株が並んでいます。この稲株は、収穫感謝祭会場で「ヒトメボレ」と並べて展示するとのことです。また、実際の米粒の比較もされるとお聞きしました。
小学生代表の方

小学生代表の方・・・

5年のO・Eです。稲刈りの感想は、田植えも稲刈りも初めての経験で難しかった。特に稲を結ぶのが難しかったけれど、何度も優しく教えてもらって美味くできるようになったし、早く美味しいお米を食べれと良いなと思いました。

米寿参加者代表の方

米寿参加者Iさん・・・

ご苦労さんでした。田植えはみんなと一緒に5月の15日にやりました。今日9月の24日は稲刈りでした。勘定してみました、何日目で収穫したのかなあと・・。160日ぐら
いかな、稲作りは百五六十日かかるのだなあと。田植えと言っても苗作りから数えて百六十日ぐらいです。

それから感じたことは、小学生さんに難しい稲であった。元々「陸羽132号」と言うのは体が大きくて、弱くできているのではないでしょうが、よく倒れる稲だと子どもの頃か
ら聞かされておりました。非常に面倒だったと思います。

 

お話を聞く小学生 今朝、東京のおにぎりやさん、東京で江刺・稲瀬で作る米は非常に評判が良いと言うことを話されておりました。新潟の「コシヒカリ」と言うのと、みんなが分かっている「ヒトメ ボレ」が最高だと消費者から喜ばれておりますと言うことを聞きましたが、これからも江刺の金札米がどんどん売れるように期待をしたいものだという事を感じました。


田植えの時もお話しされましたが、若い頃から米作りに取り組んでこられた体験からのお話には説得力がありました。お聞きしていて、昔の米作りは大変だったろうなあと改めて思いました。

お話をお聞きして、小学生の皆さんがどのように感じされたのか興味があります。
講評を述べる実行委員長のTさん。

実行委員長Tさん・・・

今朝から大変ご苦労さまでした。小学校の皆さん、想い出になったと思います。今朝お話し申し上げましたが、やはり稲瀬、この地域は冷害に耐えながら稲作を主軸として生きてきた歴史を持っています。これを絶やすことなく伝承していきたいと言う事で、今回の事業を行いました。

先程も申し上げましたが、皆さんが社会人になって東京に出て、故郷稲瀬が恋しくなったとき、是非東京代々木駅前の「田んぼ」に行けばOさんと会えると思います。「稲瀬の出身だよ」と言った時に話が弾むと思います。友達を誘って「田んぼ」に行って、金札米を宣伝してもらいたいと思います。怪我した人はありませんね、幸いです。

閉会を告げる伏実行委員長のTさん。

副実行委員長Tさん・・・

本日はご苦労様で御座いました。生徒の皆さんには一人の怪我故障者もなく無事終了したと言うことは非常に喜ばしいことだと思います。これも、今日参加していただきました米寿の方々、ご父兄の方々、一般の方々、役員の方々、本当にご苦労さんで御座いました。

元気な米寿の皆さんと「陸132号」の見事な稲株。

米寿の皆さんご苦労様でした。皆さんが若い頃は、全部手作業で秋の稲刈り作業を行ってきていました。年はとられても、体が覚えている稲刈り等の手順を拝見することが出来ました。きっと、子ども達も改めて昔の人の凄さを感じたと思われます。

右端には、刈り取る前の「陸羽132号」一株が抜かれ、並べられてあります。



こびる・・・

稲刈りのために田んぼに集合したのが午前九時頃です。それから始まった「稲刈り、穂におつくり」が終了したのが十一時を過ぎていました。最後の閉会式での感想発表等の一切の終了が十一時半頃です。その間、参加者の皆さんは休憩時間等はありませんでした。こうなると当地の言葉で「こびり」時間がほしくなります。
※「こびり(正式にはこびる)・・・仕事の中休み及びその時のおやつのこと」

田んぼで撮影していた私は、体育館前で昔ながらの竈を使用したご飯炊きの様子を見逃していました。もちろん指導なさったのは、おにぎり専門店のOさんです。

鋳物製の竈です。 昔ながらのご飯たきと言うことで、籾殻を燃料にしておにぎり用のご飯が炊かれました。ご飯炊きやおにぎりの作り方は、おにぎり専門店のOさんの指導によりました。

お盆の上にずらりと並んだおにぎりです。いつも見ているおにぎりとは違い、真っ赤な梅干しが上に乗っています。私も頂きましたが、まだ暖かいおにぎりで美味しかったですね。使ったお米は「ササニシキ」とのことでした。
梅干しを上にのせたおにぎり かなりの数を作られたようです
休憩の場面 実行委員の皆さんがシートに座り一休みです。これが本当のこびる(当地ではこびりとかたばこ時と言いますが)の姿ですね。

これからの取り組みが話されていました。


10月18日に収穫感謝祭が開催され、300名を超える地域の皆さんが参加して「金札米誕生88年」の記念式典と祝賀会が行われました。私も参加する予定でおりましたが、別の用件があり残念でしたが参加できませんでした。

10月24日の稲瀬小学校文化祭で、5年生の皆さんによる呼びかけ「米作りとの出会い」を見る機会がありました。同じ内容で収穫感謝祭式典で発表されたと言います。ここでは呼びかけで発表された中から、子ども達が感じたことを抜粋で紹介いたします。


米作りとの出会い・・・
江刺金札米が出来てから八十八年、長い歴史のあることを知りました。僕の家では米を作っています。私の家でも米を作っています。5月15日田植え。田んぼに入って植えたことはありませんでした。僕たち私達にとって、初めての田植え。

五年生代表作文朗読から(抜粋)
今日、五年生と六年生で田植えをしました。僕の家でもおばあさんがお米を作っているけど、僕にとっては初めての田植えでした。朝、家のおばあちゃんが「田植え頑張ってこいな」と言いました。僕はちょっと自信が無かったけど「うん頑張るよ」と言いました。

開会式で江刺金札米のことを聞きました。金札米という名前が付いてから八十八年たったということを聞いて、こんなに前から名前が付いていたことに驚きました。

いよいよ田植えです。初めて裸足で田んぼに入りました。始めは田んぼの水が冷たくて、「わーつめてえー」と声を出してしまいました。土の感触はぬめっとしていて手や足がぎくしゃくしたけれど、三本ずつていねいに苗を植えました。手渡された苗を全部植えた頃には、足は泥だらけになってしまって、田んぼから上がろうとしたら滑って転びそうになりました。

閉会式の時、江刺金札米が北は北海道から南は長崎県まで売られていることを聞いてびっくりしました。初めての田植えは、おばあちゃんに言ったとおりよく頑張れたと思います。これからは、江刺金札米を作っているおばあちゃんに手伝いをしたいなと思いました。


呼びかけ・・・
江刺で作っている江刺金札米は、遠い北海道や九州で売られていることに驚きました。美味しいお米だと言われていることを知って嬉しくなりました。そう言う美味しいお米を食べて大きくなった僕たち私達は幸せです。

9月24日稲刈り。三本ずつ植えた小さな苗が、私で持てないくらいの大きな稲束になり、立派に育っていました。鎌でがりっと刈ったとき、稲の束を持ってびっくりしました。稲を丸く方法を何回も教えてもらったけれど、なかなか出来ませんでした。

学校の行き帰りにほんにょを見たことがありましたが、重い稲束を掛けるのは初めてでした。バインダーで稲刈りをすることを手伝ったことがあったけど、鎌を持って稲刈りをしたのは初めてでした。米と言う字は八十八と書く。米を収穫するまでには八十八の作業をやることに驚きました。私達がやったのはそのうちの二つ、田植えと稲刈り。

八十八年前、江刺金札米を作り始めた頃、今のような田植機もバインダーやコンバインもなかったのです。そんな中で、美味しいお米を作るために汗水流して米作りを頑張ってきた地域の人達、だからこそ今の金札米があると言うことに気がつきました。本当に素晴らしいことです。八十八年間作り続けてきた美味しい江刺金札米を、これからも沢山の方に食べてもらいたいと思います。


子ども達が文化祭で発表した呼びかけでは、実際に手作業で体験した米作りのことが語られていました。将来稲瀬にあって米作りに従事した際、心の中に残る貴重な原点になって欲しいと願います。

米作りの環境は、以前に比較して大きな変換の時期を迎えようとしています。将来の後継者としての子ども達が大人になった時、迷わず米作りに邁進できるような農業環境になっていることを願わずにはいられません。

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