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      仙北街道 入口・出口確認ツアー

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秋田県東成瀬村にある「首もげ地蔵」の説明を受けるツアー参加の皆さん。

仙北街道 入口・出口確認ツアー・・・

恒例になった胆沢ガイド散居の会主催による、いさわ路探訪「仙北街道 入口・出口確認ツアー」が6月28日(火)に開催され参加してきました。仙北街道と問われても記憶に無かったこともあり、ツアーで頂いた資料から抜粋してみました。


時空を越えて・・・仙北道の成り立ち・・・

仙北道は中世平安の昔から明治の中頃まで栄えた街道。そこには悠久の歴史の流れを彩るさまざまなドラマがありました。仙北道がいつ開かれたかは明確ではありませんが、陸奥胆沢城が築かれた延暦21年(802)雄勝城と結ぶ最短距離として開かれたと言われています。

当時大和朝廷は東北の蝦夷を支配するため、城や柵といった軍事・政治拠点を築いて次第に支配地域を北上させていました。そして太平洋側の重要拠点が多賀城・胆沢城、日本海側が雄勝城・秋田城で、両者を最短距離で結ぶ仙北道は、軍事的に非常に重要な道路だったのです。

近世になっても、秋田藩と仙台藩の境界として重要な道であることは変わりませんでした。・・・以下省略。

※みちのくぶな古道
 よみがえる仙北道 秋田県東成瀬村総務企画課監修冊子より引用


今回参加募集の案内記事を見て早速申し込みしましたが、年々いさわ路探訪ツアーは参加希望者が集中していますので、タッチの差で受け付けてもらいました。定員が25名ですから、うっかりしていると外れてしまいます。

トップの画像は、秋田県東成瀬村にある「首もげ地蔵」の説明を受けるツアー参加の皆さんです。

                                                       2016.07.17 作成



岩手側道路・・・

胆沢ダムから県境まではおなじみの道路(国道397号線)になります。いつもは自分が運転していますので、周囲の様子を眺めることは出来ても撮影することはまず無理というものです。助手席の息子に依頼するか、交通量のない場所に来てノーファインダーでとっさに構えるのがいい所です。

今回は座る場所に恵まれたので、心置きなく構えて撮影することが出来ました。しかし、運転席正面のガラスに反射するなどして、カリッとした画像にはなりませんでした。
岩手側の道路 1 胆沢ダム管理事務所を左に見て焼石東トンネルをくぐります。ここからツアーの開始になります。一気に岩手県境まで走ります。
岩手側の道路 2 尿前大橋だったと思いますが、この橋を渡って右に入ると焼石岳登山道入り口があります。この下には、尿前川が流れており秋の紅葉時期は見事に彩られます。

冬期間になると、この場所までで通行止めになったと思います。
岩手側の道路 3 谷子沢大橋と書かれてありました。谷をまたぐ大がかりの橋が造られています。
岩手側の道路 4 つぶ沼とおろせ広場入り口を経由し、一関市の祭畤(まつるべ)まで続く新しく開通した道路です。

東成瀬村、須川温泉を経由して一関側の祭畤(まつるべ)まつるべまで下り、そこから「焼石ビーチライン」を経由して、この場所まで出る事になります。

新緑の中を道なりに進むと、県境にある大森トンネルが見えてきました。
岩手側の道路 5 岩手側の道路 6
岩手側の道路 7 岩手・秋田県境にある大森山トンネルです。うまい具合に出口が見えていました。


秋田側道路・・・

ここからは秋田県になりますが、トンネルを出たとたんに地理不案内になりました。ほとんど来ることもない場所ですから仕方ありません。今までに何回か通り抜けて横手まで向かったことがあります。

おなじみの道路(国道397号線)も、峠を下った東成瀬村で国道342号線に変わりT字路を左に折れて、一気に須川温泉を目指します。
秋田側の道路 1 大森トンネルを出ると、大きなイラストの絵があり・・これより仙人の郷 東成瀬村・・の表示がありました。愉快な下駄履きで迎えてくれた仙人の姿でした。

かなりの屈曲道路を下り、途中で須川温泉方面に向かいます。
秋田側の道路 2 秋田側の道路 3
秋田側の道路 4 ここのT字路で左折します。選挙の最中であり、秋田県の候補者のポスターが貼られてありました。

右に曲がると横手市方面に進み、左に曲がって須川温泉方面に向かいます。ここからは初めて通る道になります。
秋田側の道路 5 あとはひたすら標識に従って進みます。一関73km、須川温泉28kmと表示が出ていました。


手倉御番所跡・・・

須川温泉に向かう途中、とある民家の入り口に建立されてある石碑です。題字には「手倉御境口御番所跡」と刻印されていました。民家の入り口ですが、かつてはこの場所に御番所があったと思われます。私達はバスから降りて、運動を兼ねて周囲を眺めて説明をお聞きしました。

御番所跡の説明文は、まるごと自然館で頂いた資料によります。かなり内容が多量ですが、資料を読んでいるうちに奥州に住まいするならば、先人の苦労を知るべきだなあと思ったからです。


秋田藩は手倉に御番所を設け、役人を常駐させて人や物の出入りを監視していました。手倉御番所の設置年は不明ですが、秋田藩の成立初期、領内十五箇所の関所・御番所と同じ時期に設けられたと思われます。

この頃になると軍事上の重要性とともに、経済面も重視されてきます。物の出入りに税(出役・入役)をかける税関の機能も御番所は担っていました。また、毎年人足を出して道の刈り払いを行い、道路維持に努める管理事務所でもあり、罪人を領外に追放する刑の執行機関でもありました。

手倉御番所は明治二年廃止となり、以後通行が自由となりました。明治十五年頃までは大いに栄えたといいますが、横手と北上を結ぶ平和街道が開通してからは急速にさびれ、いつしか忘れられていきました。


人・・街道を行く人、来る人。こんな人物も通った・・。仙北道を通った人の数は計り知れません。たとえ記録には残っていなくても、「こんな人たちも通ったはず」と推測出来る歴史上の人物が沢山いるのです。源義家、藤原清衡・源義経、高野長英、戊辰戦争の悲劇。

物・・物資輸送は高収入の花形職業・・。道があれば物が動きます。山越えの道は大量輸送に不向きとはいえ、人々の生活に欠かせない品々が行き来しました。仙北道は、地域の経済を支える生活道路でもあったのです。物の行き来、仙北道は「うるしの道」、背負子(しょいこ)は高収入。

文化・・信仰は山をも越える・・。宗教は人々の生きる支えであり、文化・芸術の担い手でもありました。宗教者は布教のため、また時に迫害を逃れるために困難な道を歩きました。もちろん仙北道もその一つです。キリシタンの道、高僧・名僧が通った道。

手倉御境口御番所跡の様子 1 民家の入り口にあった石碑、「手倉御境口御番所跡」と刻印されています。

後ろ姿は、いさわ散居ガイドの会会長である鈴木さんです。
手倉御境口御番所跡の様子 2 手倉御境口御番所跡と刻印され、平成十八年十月・・とありました。

佐藤 良 書と刻印され力強い達筆で見とれてしまいます。
手倉御境口御番所跡の様子 3 石碑の右側の木に立てかけられている木柱には、昭和五十年四月、東成瀬村農業協同組合青年部の文字が読み取れます。

何を意味するのか説明等がありませんので不明でした。
手倉御境口御番所跡の様子 4

道路から奥まった場所にある民家、この石碑の場所の持ち主なのかもしれません。

私有地なので、勝手に入らないようにと注意がありました。

手倉御境口御番所跡の様子 5 立派な石碑なので正面から撮影しました。
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