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首もげ地蔵・・・

手倉御番所跡から少し進んだ場所でバスを降りました。道路脇にある小さな石碑群が見られました。よく見ると、路傍の片隅にある地蔵さんですが首に相当する部分が見えないのです。すとんと首がもぎ取られて感じでした。奥州市衣川地区に鎮座する磐神社の境内にも首無し地蔵がありますが、身体の下に首が置かれてありました。地蔵さんといえども、人型の彫り物で首が無いのはあまり気持ちの良いものではありません。

頂いたガイド資料には次のように書かれてあります。・・ある時、番所を破った罪人が極刑となった罪人は、地蔵様の前に座って念仏を唱えた。すると役人が切ったのは、罪人の首では無くこの地蔵様の首であり、細沼の中に埋もれたと言われている。明治2年の関所廃止により地蔵様は現在の場所に移った・・。身代わり地蔵、このような話しは民話としてよく聞かれますが、この場所に首があるのでしょうか、興味があります。


ネット資料で首もげ地蔵を調べていたら、同じような記事を見つけたので転記します。

・・仙北街道は罪人を藩外へ追放する道としても利用された。かつて罪人を「首もげ地蔵」の地点で追放したとある。ある時、極刑の罪人が首を落とされる前に地蔵様の前で念仏を唱えていた。関所役人が切ったのは、罪人ではなく地蔵様の首だったという。逆に仙台領から追放され秋田藩に入った罪人もある。その最たるものは怪盗「彦六」である・・。

首もげ地蔵 1 首もげ地蔵と刻印された自然石が立てられています。この石柱の建立年月がいつ頃のものなのか知りたいものです。明治2年にこの場所に移動したとありますので、この頃に造られたのかなと思いました。

地蔵様は道路脇にあり、そこから立派な道路が拡がっていました。向かって左側に曲がり、山間の方に伸びています。この道路が仙北街道なのかなと思います。

真剣な表情で鈴木会長の説明をお聞きしていました。確かに首の無い地蔵様ですが、皆さんはどのように感じられたでしょうか。
首もげ地蔵 2
首もげ地蔵 3 首もげ地蔵 4
首もげ地蔵 5 周りの石碑群より一段と高い台座に乗り、かなりスリムな地蔵様です。地蔵様の身体をよく見ると、衣をまとっている様子がうかがえました。

道路脇にあるせいか、側には道しるべとなる道標が置かれてあります。右 おくむら、左 せんだい。

最下段の画像は、首もげ地蔵の場所から山間に延びる道路の様子です。資料によると、当時の地蔵様の場所はここでは無かったようです。
道標 1 道標 2
山間に延びる道路 1 山間に延びる道路 2


まるごと自然館・・・

まるごと自然館は、平成13年3月に閉校した椿川小学校をリニューアルし、東成瀬村の貴重な歴史や自然環境などのデータ展示する場所になっていました。時間がありませんので生物資料、特にも関心のある昆虫類の標本を見たかったのですが残念でした。

手倉御番所の縮尺模型や、胆沢区愛宕地区から寄贈された「仙北街道駕籠道中大会」に使われる駕籠が展示されていました。
まるごと自然館 1 もと椿川小学校の玄関です。大きな看板に東成瀬村まるごと自然館と書かれてありました。

私達一行は揃って中に入りました。ちょっとした旅行気分です。
まるごと自然館 2 横位置では入りきれませんが、東成瀬村の北部付近の立体模型です。制作年月日を見て驚きましたが、昭和11年から14年にかけて制作された物でした。

私達がバスで秋田入りをした道路も描かれていました。

下段の左画像は、書面に描かれた手倉御番所の復元図であり、右側が復元模型でした。庭先の御槍置き場には三本の長柄の槍が並んでいました。
まるごと自然館 3 まるごと自然館 4
まるごと自然館 5 元椿川小学校の玄関でしょうか、地域の文化センター的存在の施設に変身です。
まるごと自然館 6 元椿川小学校の全景です。大きな自然石に、椿川小学校と刻印された黒い石がはめ込まれています。

ここからひたすら須川温泉を目指し走ります。須川温泉・栗駒山荘付近は雨こそ無いのですが、かなり濃いガスに覆われ展望がききません。

私は栗駒山荘で昼食・入浴後、源泉観察に出かけてきました。


下嵐江(おろせ)入り口の様子・・・

最後の画像は、普段であれば絶対に見つけることの出来ない道路の西側斜面にあります。詳しい場所の説明になりますが、下嵐江広場からビーチラインを少し南側に走った西側崖の斜面にひっそりとありました。この場所へは今まで何回か訪れていますが、出入り口の案内標識等もありませんので仕方ありません。
斜面下から見上げた石柱の様子です。

石柱前の道路までは斜面を登らなくてはなりません。ずるずると滑ってちょっぴり大変です。
木の葉が茂り、最初はストロボ無しで撮影しましたが、画になりませんでした。

急遽ストロボを取りにバスまで戻り、ストロボをセットしての撮影です。

道路というよりも、山道という表現がぴったりです。斜面に造られた道ですが、注意しないと滑り落ちてしまいます。
仙北街道

下嵐江 入り口と刻印された石柱。

この地に建立されてまだ新しいと思いました。


旧仙北街道の跡・・・

今から遙か古の昔、胆沢城が築かれた頃から明治の初期まで、険しい奥羽山脈を越え物資や文化の交流があったとは知らなかった私です。世界遺産である平泉文化も、この仙北道を利用しての交流無しには存在しなかったとも言えます。そんなことを念頭にこの街道の入り口を見た時、想いは古にさかのぼります。

頂いた資料にも大きく書かれてありますが、・・歴史街道・仙北道は中世平安の昔から明治の中頃まで栄えた街道。そこには悠久の歴史の流れを彩るさまざまなドラマがありました・・。まさにその通りだなあと思いました。


旧仙北街道・・・

仙北街道は、奥州街道を水沢で分かれて西に進み、浅野、供養塚、市野々(いちのの)、下嵐江(おろせ)を通り、そして奥羽山脈を越える街道である。秋田の雄勝(おかち)、平鹿(ひらが)、山本のいわゆる仙北三郡に達する道なので名付けられた名称で、「手倉越え、仙北道、秋田街道、中山越え、下嵐江(おろせ)越えなどと呼ばれていた。江戸時代の文書には「仙北街道」と記されている。

仙北街道は、古代から中世にかけて、岩手県南と日本海側の秋田県とを結ぶ、最も主要な道であった。エミシと大和の争乱の時代から戊辰戦争の頃まで重要な役割を果たした道であり、出羽方面から岩手県南へ来る道と言えば仙北街道であった。

現在は、北上市と横手市を結ぶJR北上線沿いの国道107号線が利用されているが、これは明治以後のことで、国道107号線は江戸時代始めの天保大絵図(全国の藩と道路を記した絵図)には記載されていない。前九年の役、後三年の役で、清原武則が救援の際通った道も、源義家が沼の柵を攻撃するために通ったのもこの仙北街道であったろう。   

人・・街道を行く人、来る人。こんな人物も通った・・。

物・・物資輸送は高収入の花形職業・・。

文化・・信仰は山をも越える・・。

                                       ※頂いた資料・・仙北街道を考える会編集発行より
歴史街道・仙北道入り口です。
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