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2011年一関市・興田神社蘇民祭
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1月2日の花巻市胡四王神社蘇民祭に続き、4日早朝は一関市大東町興田地区に鎮座する興田神社で蘇民祭が執行されました。私にとってはかなりハードな日程でしたが、今回を外すと来年まで機会がありませんので3日深夜に出かけてきました。家から一時間ほどの距離にある興田地区ですが、残念ですが訪れる機会がなかった地域です。 頭の中におおよその地図が入っていても、雪道の深夜、初めて訪れる場所へのドライブは不安があります。本来であれば、麓の街中にある開発センターから男衆と歩くのですが、深夜の片道4kmを追いかけるには体力的に限界を感じ神社まで一気に走りました。 トップの画像は、もうもうと煙を出して燃え始めた柴燈木の上で気勢を上げる男衆です。蘇民祭の柴燈木登りと言いますと、裸で下帯一つの姿を連想しますがここでは上半身裸でさらしを巻いた姿でした。 蘇民祭の名称と由来・・・ 通称「ソミトリ」=蘇民袋の中の護符(ソミ)を取り合って、降伏を勝ち取ろうということ。「ソミヒキ」=蘇民袋を東西に引き合って、そのことによってその年の作占をすること。 牛王宝印(延元3年・1338)を蘇民祭の夜、子供の額に御判として押し、無病息災を念じた。また、家族には白紙に押印したものをを持ち帰り、身体を撫でてて無病息災を祈った。興田神社蘇民祭は昭和三十年頃が最盛期で、三十から四十人の参加者があったという。見物客も大勢出た。(※岩手の蘇民祭より) |
興田神社・・・ 養老二年(718)鎮守府将軍大野朝臣東人が勧請したといわれている。妙見宮と尊称された。源頼義、葛西対馬守高清の崇敬篤く、特に建武二年(1335)平高清が田五百畝を寄進した。 往昔、このお山を妙見山と号し、妙見堂があった。慈覚大師が弥陀薬師観音妙見摩利支天像を造立し、妙見山法眼寺と号した。明治になり、興田神社と改称し、現在に至る。(※岩手の蘇民祭より) |
3:00過ぎ・・・ 食べながら色々な話が出てきました。そばにある巨大なご神木、「土の中に6m以上も埋まっているよ。この場所(本殿のある境内)を造るとき埋めて平らにしたから・・。660年以上かなあ、平泉にだってこんな大きな木は無いよ・・」と笑いながら教えてくれました。「ここは田舎の祭りだからね」、どうやら報道関係者と間違えられたらしい。 岩手の蘇民祭に書かれてあったことをお聞きしてみました。「悪口を言い合うとありますが、どんなことですか?」「そんなこと無いなあ、聞いたこと無いよ・・」と年配の方が言うのだから本当なのでしょう。「今聞こえている謡の中に、ケンカするなと言う意味のことがあるくらいかなあ・・」とのことであった。 |
4:00頃 麓から男衆が到着・・・ 4km先の開発センターから登ってきた男衆の行列が神社の下に到着しました。鳥居の前で隊形を整え、松明を先頭にし祓いながら石段を上ってきました。松明の後には、マンギャ棒(式棒)に前後を守られた蘇民袋がゆっくと進みます。正直の所、もっと人数が多いのかなあと思いましたが、それほどでもなかったように思えました。 石段を登りそのまま本殿へと向かいます。本殿入り口では係の方が三宝を持って待機しています。慎重に三宝の上に蘇民袋をのせて男衆はほっとした表情が見られました。続いてくる角灯は全体で四本かなと思います。夜間の男衆の行列は角灯が目立ちますが、ここではひっそりとした様子でした。 |
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