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嘉祥寺跡の一角は一メートルほどの高さがあり、その中に礎石がきちんと並んでいます。杉の根が張りだし礎石の周りを這っている感じさえあります。上の一部しか見えていない礎石ですが、地下にどの位埋め込まれているのか興味がわきます。

嘉祥寺跡・・・
「吾妻鏡」によると、二代基衡公が工を始め、三代秀衡公が完成させた御堂で、その前身は慈覚大師開山までさかのぼり、寺名は開山寺の年号に由来する。本尊は丈六の薬師如来。建物の規模は、正面七間(約27.9m)側面六間(約22.5m)で左右があり、金堂円隆寺とほぼ同じである。基壇は亀腹式の土壇であり、堂内の壁や扉には法華経の教えが画かれていたという。
嘉祥寺跡 1・・・周囲の杉林のせいで杉っぱが沢山落ちていました。
嘉祥寺跡 2・・・よく見ると礎石がきちんと並んでいます。 嘉祥寺跡 3・・・杉の根とカエデの落ち葉がきれいでした。



荒れて朽ち果てた感じがしますが、説明によると厚い粘土層があると言います。平らに見える部分がそうなのでしょうか・・。画像は一コマだけです。

講堂跡・・・
本堂は胎金両部如来。仏法を説き仏法を聴く堂舎であった。また、灌頂という密教儀式を行う奥羽の灌室であったという。正面五間(19.1m)、側面四間(15.1m)の建物で礎石34個が完存する。嘉禄の火災後再建、天正元年(1573)の戦に夜火災で焼亡。

講堂跡・・・何もない場所に見えますが。


説明には、毛越寺の中心的建物とあります。南大門跡から見ると真正面になり、池の中には中島があります。対岸の南大門から中島を経由して、池を渡る橋が架けれている伽藍復元図があり、往時の華やかな庭園の様子が想像できます。ここにも土台の礎石が規則的に並んでいました。

金堂円隆寺跡・・・
基衡公建立の勅願寺。鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」の中では、「吾朝無双」と称されるほど万宝を尽くしてつくられた建物であった。本尊は、運慶作の丈六の薬師如来。毛越寺の中心的な堂で、東西に廊が出て南に折れ、その先端には鐘楼、経楼があった。嘉祥二年(1226)火災で焼失した。基壇は石造り壇上積である。

金堂円隆寺跡 1・・・この場所が一番きれいに整備されていました。 金堂円隆寺跡 2・・・大きな柱には「吾妻鏡」によるとといわれが書かれてあります。
金堂円隆寺跡 3・・・礎石がきちんと並んでいます。 金堂円隆寺跡 4・・・かなり広い場所であり、一段と高くなっています。


四季を問わず訪れると撮影したくなる場所です。昨年は遣水の流入口を求めて上の方を探してみましたが、それほど大きな流れが無くどこから流れてくるのかなと思ったくらいでした。いつ来ても静かな流れがあるのですから、より上の山の方から流れてきていると言えます。もっと探索したいのですが、竹の柵がまわされているので遠慮しました。

曲水の宴ではないのですが、流れに浮かぶカエデの落ち葉が華やかな様子を想い起こさせてくれます。流れはそのまま大泉が池に注いでいますので、水流が途絶えることがないようです。

遣水・・・
この遣水は、庭園の発掘調査中に往時の姿のままに発見されたもので、遣水の構想は奈良の宮跡庭園を除いては例が無く、平安時代の遺構としては唯一のものである。遣水は池に水を取り入れる水路であり、玉石を底に敷きつめ、流れには水越し、水切りの石、その他水の曲がり角や池への注ぎ口に石組みを配するなど、平安時代の指導書「作庭記」の様式を余すところなく伝えている。その美しい流れとせせらぎは、浄土庭園風雅な趣を添えており、「曲水の宴」の舞台ともなる。
遣水 1・・・流れ落ちてくる山の様子、流れ落ちる傾斜が結構あります。 遣水 2・・・草原の中を延々と流れてきます。
遣水 3・・・竹の柵ががありますが、曲水の宴の時はこの柵の外側に座って見学します。 遣水 4・・・常行堂に行くところに橋があり、この上から流れを見下ろしました。カエデの落ち葉が浮いたり沈んだりしています。
遣水 5・・・縦位置で橋の北を見た様子、山の方からから流れてくる様子が分かります。 遣水 6・・・縦位置で橋の南を見た様子、大泉が池に流れ込んでいます。
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