地獄讃・・・
ダンテにしても、ミルトンにしても、ブレークにしても、その描いた天国はちっとも美しくもなければ面白くもない。
それなのに地獄編になると、全く凄まじい楽しさだ。そこには生きるものの残虐さが遺憾なく表現され、僕など極楽へやってもらうよりは地獄行きを願いたい。偉大な詩人や作家によって描写される天国も地獄も、近代人にとっては恐ろしいところでもなく、羨ましいところでもなくなった。
しかしながら我が別府に遊ぶと、八大地獄が現前する。これは確かに恐ろしい地獄に相違ない。熱湯が噴出し、轟々と地鳴りがし、生きた巨大な鰐が数え切れないほど犇めき、鬼こそ目に見えないが足を滑らせたら、一瞬にしてこの世のものではないのだ。地獄の釜より熱いだろうと思うと、地獄へ行きたい根性などかき消えて仕舞う。
人間は一度は現世の地獄を見、何等かの意味でおのれを空しうして反省し、生きる道を考えるには別府の地獄の諸相を目の当たりに見ることを寧ろ御すすめしたい。地獄をくぐって生き返った人間こそ、本当の人間だからだ。
今 東光
(※頂いた資料 ようこそ「地獄」へ)より
実際に別府の地獄めぐりをすると、熱湯噴出【国指定名勝】ですが見ている分には恐怖を感じません。しかし、撮影した画像を元にページの解説文を作成しながら思いだすと、もし・万が一足を滑らせたらどうなるか・・・と考えると背筋が冷たくなります。間違いなく即死に近い状態におちいります。
今東光氏の「地獄讃」を読んでいると、地獄をくぐって生き返ってこそ本物の人間としての道が開ける。そんなことを考えると、幸か不幸かここまで生きてきている自分に地獄体験がないことに気がつきます。人としての生き方の強かさ、地獄とは何かを考えさせられる一文でした。
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