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       奥州市胆沢区・蛸の手分水工


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蛸の手分水工・・・

徳水園放水式を撮影し円筒分水工について詳細を知りたくない、ネット資料等の検索からいろんなことを学びました。驚いたことは、円筒分水工に関心を持ち全国にある分水工を訪れその内容を紹介しているサイトに巡り会ったことです。そのサイトの中に、徳水園と並び胆沢地区小山にある蛸の手分水工の存在を知りました。

家からそれほど遠い場所ではありませんので、天気の良い日に訪れてきました。胆沢地区の中心地でもあり奥州市役所胆沢総合支所のある小山地区、ここから少し南に進んだ場所に「蛸の手親水公園」がありました。親水公園と名付けられたこともあり、駐車場も完備しちょっとした憩いの場所とも言えそうです。

円筒分水工付近にはどなたの姿も見られませんが、用水の取り入れ口である「寿庵堰」を眺めながら撮影しました。一見した所では徳水園と同じような構造ですが、厳密に調べると少々違う面も見受けられます。その第一は、寿庵堰からの用水取り入れ口がサイフォン形式ではないことです。徳水園から分水された用水は、寿庵堰に橋が架けられそのまま円筒部分に入ります。

二つ目は徳水園の場合とは違い、流れ落ちる部分水路があり用水が来ない部分があることです。円筒部分から流れ落ちた用水は、水路の円周にコンクリートの仕切りがあり、供給する面積により初めから区分けされていました。

うまく説明できませんが、排出口の二カ所をご覧になると納得できると思われます。


親水公園・・・

親水とは、水や川に触れることで水や川に対する親しみを深めることである。

古来、河川の氾濫は人々に大きな被害をもたらしてきたため、治水が行政にとって重要な課題であった。しかし近年、環境問題がクローズアップされ、河川においても、治水のほかに親水が重視されるようになった。

治水のためにコンクリート護岸になってしまった川を、自然護岸あるいはそれに近い状態に戻して人々と川との間の垣根を低くすることで、川への親しみを取り戻し、水質汚濁を防ぎ生物にやさしい川を取り戻したいという市民の欲求が高まってきた。

各地に「水に親しむ」を目的とした親水公園が作られている。
                                                       (※ウイキペディアより)



蛸の手親水公園 蛸の手親水公園・・・

かなり広いスペースに駐車場が整備され、水に親しむねらいで造られた公園だなあと思いました。
蛸の手分水案内板 公園内を散歩していたら、興味のある案内看板が目に入りました。

蛸の手分水と書かれた看板に、「蛸の手」の地名の由来は不明ですが、昔も今も道路と水路とがここで分岐し、まるでタコの足のようになっています。寿庵下堰の重要な分水地点でもあります。・・百姓の歴史をたどる道・・よりと表記されています。

ちょっと傾いていますが、蛸の手分水の説明と心温まる挿絵が描かれています。田んぼの水路、たわわに積まれたほにお、遠くには馬の姿が見られ、機械化農業ではない昔の様子が感じられます。
寿庵堰 1 徳水園から寿庵堰でここまで流れてきた用水、かなりの水量だと思いました。この周辺歩き、水門や円筒分水工の場所を観察して撮影しました。

下の画像は寿庵堰水路と水門、高い場所から見た円形分水工の様子です。
寿庵堰 2 蛸の手円筒分水工遠景
蛸の手円筒分水工全景 蛸の手分水工全景です。おなじみ円筒分水工ですが、徳水園の大型分水工とは違い、用水の取り入れ口部分で円周が切れています。

どの位の大きさになるのか、資料等がありませんので不明です。徳水園のような流量の激しさがなく、穏やかな流れがそばで観察できます。

徳水園から流れ込む用水 蛸の手分水工・・・

徳水園から分流した用水は、寿庵堰を流れこの地まで届きます。水量が多く落ちたら怖いなあと思いました。

下の画像は円筒部分に入る水門と、蛸の手分水工と書かれた表示板がありました。円筒分水部分の北半分になり、左中央の排出口が見えています。
用水路水門 取水口と円筒分水部分の北半分
流入口北側の部分と円周部分に流れ落ちる水 流入口北側の部分と円周部分に流れ落ちる水です。蛸の手分水工の表示が見えています。
円筒分水部分の南半分、コンクリートで仕切られています。 円筒分水部分の南側になり、水路円周部分に仕切りが作られて排出量の区分が出来ています。

下の画像は、寿庵堰水路から直接円筒部分に流れ込む様子と、水路円周部分に流れ落ちる様子が分かります。円筒部分の水の動きが穏やかですから、それほど流量が多いとは思えません。
寿庵堰水路から直接円筒部分に流れ込む様子 水路円周部分に流れ落ちる様子
かなり多い割合で流れ出ている北側排出口。 この排出口からは、かなり多い割合で流れ判断すると、ここから流れ出た水は二方向に分流し、南都田地区や水沢地区の田んぼに供給されます。
排出口の拡大 排出口の拡大です。水位スケールがあり、水深50センチぐらいだと思います。
コンクリートで区切られた部分 水路円周南部分の端に、コンクリートで区切られた部分があります。水路資料によると、ここからの水は前沢方面に流れていくようです。水路円周全体から見ると、かなり少ないようにも思えます。
水路円周南部分の区切られた場所の様子 水路円周南部分の区切られた場所の様子です。水深を確認しませんが、北側部分と同じ50センチぐらいと見ました。

円筒分水工を撮影し、その様子を調査して説明テキスト文を起こしますが、知らないことが多くうまく説明が出来ません。

寿庵堰は今から400年前に造られています。全て人力と牛馬の力による作業です。昔の人々の苦労があり、今に至っていることを思うと感動します。

何気なく見ている寿庵堰、言葉では表せない苦労があり今がある・・。先人の皆さんに感謝あるのみです。

寿庵堰・・・

茂井羅堰と並んで胆沢平野をうるおす二大水路のひとつ、寿安堰。工事を命じ堰の名前にもなっている後藤寿安は、水沢福原の領主で、キリスト教を信仰するキリシタンでした。

約400年前の江戸時代、工事は水を取り入れる胆沢川上流の金入道から始まりました。しかし約5年をかけて土橋周辺まで1.7キロメートルを掘ったところで、寿安は逃亡せざるをえなくなります。寿安が仕える仙台藩主・伊達政宗が、キリスト教を禁じたためでした。工事が止まった翌年、胆沢地方はまったく雨が降らずに大干ばつに見舞われます。ひび割れた水田を見かねて、再び水路の工事に立ち上がったのが、千田左馬親子と遠藤大学という、どちらもキリシタンでした。

多くの困難を乗り越え、堰は13年の年月をかけて完成したのです。いまも胆沢区小山、前沢区に広がる美しい田んぼは、寿安堰がうるおしている風景なのです。                              (※ネット資料から)



                                                       2014.05.13 作成

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