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           北上市・ひじり塚

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ひじり塚入り口にある案内板。
江刺から北上市に向かう山道の途中、時宗の開祖「一遍上人」の祖父にあたる『河野通信(みちのぶ』が埋葬されている墳墓があります。かなり以前からこの場所を通過していますので『河野通信』の案内板があることを知っていましたが、歴史に疎い私は関心もなく通過するだけでした。

ウチノメサイトを開設し、郷土周辺の遺跡や歴史に関心が深まり、近くにある国見山極楽寺廃寺跡を訪れる機会が多くなりました。あまり関心がなかったこととは言え、『河野通信』の墳墓が「聖塚(ひじりつか)」と言う名で保存されていることを知りました。

今まで画像記録を試みたこともありましたが、サイトで紹介する内容の学習が深まらずそのままになっていました。十月に入り紅葉探しに国見山周辺を散策しながら、帰り道に寄ってみました。


ひじり塚・・・

北上市稲瀬町下門岡(旧江刺郡)に聖塚(ひじりづか)と呼ばれる塚がある。これは河野通信(こうのみちのぶ)の墓とされている岩手県指定史跡である。その墳墓は外山と呼ばれる沢の奥にあり、その付近一帯を聖沢と呼ぶ。

墓は幅二メートルほどの掘りで方形に囲まれ、一辺はは約十一メートルほどである。これを基壇とし、中央に墳丘を築いた上円下方の墓である。

県指定とされたいきさつは、これこそ、踊り念仏で有名な時宗の開祖「一遍上人」が弘安三年(1280)に詣でた祖父河野通信の墓と判明したからである。 (※北上市編 北上の歴史より)


交叉点から入った場所の標識。 ひじり塚までの順路・・・

北上市展勝地から江刺に向かうとき、最初に出会う信号機のある交叉点(コンビニあり)があります。そこから左折(山側に入る)し少し進むと、葬祭会館の看板脇に、「国見山・極楽寺・聖塚」の矢印が見えてきます。

ここから道なりに1.5km程直進すると、左側に大きな道路標識が見えてきます。登り切った場所に数台置ける駐車場があり、その先に聖塚(河野通信墳墓)の標識板があります。
約1.5km進むと見えてくる道路標識。 ここらは左に進みます。
ひじり塚入り口看板。 ひじり塚入り口案内板・・・

100m先の松林の中ですと書かれた下に、「ひじり塚」と大きく墨書されています。少し下り坂になっていますが、このまま直進します。

混雑しないときはこのまま車で入ることが可能ですが、駐車スペースが定まっていませんので注意が必要です。
墓所入り口 道路の終点は松林の中にある墓所の前になります。松の木一本ごとに標識ラベルが貼られ、松林の中はきれいに整地されています。

ここからの画像は、墳墓のある墓所地内での撮影になります。 上の順路の画像は11月19日に撮影した画像であり、きれいな紅葉になっている場面は11月10日に撮影した画像です。最初は墓所だけでのページを作成していましたが、この地は訪れるのに不案内な場所であることから、案内をかねて順路の画面を追加してあります。


ひじり塚(河野通信墳墓)・・・


河野通信は伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代の名高い武将です。壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦のとき勇敢な水軍をひきいて源義経に加わり大活躍をしました。鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝のそばで仕えた有力者でした。

頼朝が平泉藤原氏を攻めほろぼしたときには、岩手郡地方まで従軍し、功績によって伊予国や陸奥国に領地をあたえられました。のちに伊予国の国内の軍事や治安をつかさどる守護を命じられ、高縄城(愛媛県北条市)に住みました。

後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取りもどそうとして戦いをおこした承久の乱(1221)のとき、通信は負けた上皇がわにつきました。上皇やそれに味方した者たちは、流されたり、切られたりしましたが、通信はこの地の江刺郡に流されました。二年間ほど極楽寺に庵をむすび世捨人となって余生を送り、貞応三年(1223)五月十九日、六十八歳で世を去りました。

このあと一族からは、時宗という仏教の新しい宗派を開いた孫の一遍(智真)、北九州に蒙古軍が襲来したときに大活躍した曾孫の通有など、日本史上有名な人物が出ています。一遍は自分の新しい仏教の教えを民衆に広めるため旅に出て、その途中この地にある祖父通信の墓参りをしました。この時のようすが絵巻物として有名な「一遍聖絵」に説明文とともに描かれています。現在の史跡と絵が一致する点でたいへん貴重なものです。

この墓は土地の人々に昔から聖塚(ひじりづか)とよばれ、四角な段のうえに円く土を盛りあげた二段造りで表面を平らな石でおおい掘りをめぐらした名族にふさわしい堂々とした造りとなっています。

北上市教育委員会  (※現場にある説明板より)

河野通信墓所の全景です。 墓所に入ると、最初に目につくのが「河野通信墓所」と刻まれた石柱です。

石柱の後が墳墓で、姿の良い松の木が生えており、左側の灯籠の後に供養のための墓碑があります。

墳墓周辺はきれいに整備され、松の葉しか落ちていません。管理される方々は大変だなあと思いました。
南側に位置する墓碑と卒塔婆。 墳墓の南側に位置する墓碑と卒塔婆。比較的新しいもので、平成になってから建立されたようでした。

卒塔婆には戒名が様々書かれており、正確なところは不明でした。
墳墓上の松の木 墳墓上の松の木と背景にあるカエデの紅葉。

季節の移ろいに見守られている・・・、そんな感じすらしてきます。
墳墓の全景 1 上の画像と同じ場所ですが、ワイドレンズでの撮影になります。

墳墓の周辺が掘り割りになっている様子が伺えます。

左端には墓碑が見えています。
墳墓の全景 2 上の画像と同じ場所からの撮影です。十日後でもあり、紅葉の彩りは見られません。
北側から見た墳墓と掘り割り。

幅2mほどの掘りが分かります。約11mほどある基壇とありますが、はっきりとはしません。

中央に円い墳丘がありますので、この下に河野通信が眠っていることになります。

右側は崖になっており、降りることは困難です。

この下に石組みの基壇があると言うことは、発掘調査して分かったことであると思います。

ひじり塚説明板 墳墓を見下ろす小高い場所に建てられている説明板で、横浜市河野姓露木邦雄氏寄贈と書かれてあります。

説明板の左上が、「一遍聖絵」になります。

国宝『一遍聖絵』の模写。

この画像は、現地にある案内板に描かれている国宝『一遍聖絵』を撮影したものです。墳墓の前で合掌している方が一遍上人で、墳墓の回りを弟子達が二十人合掌している様子が描かれています。本物の絵図は国宝ですが、この場所に模写されているとは知りませんでした。じっと見ていると、遙か昔の情景が浮かんできます。


祖父の墓参りをした一遍・・・

河野通信の孫一遍は流浪の民となった通信の七男通広の子」で、智真と呼ばれた。若くして僧になり、遊行を本願とする鎌倉仏教を開き、後に一遍上人とよばれた、時宗の開祖である。

その教化遍歴の生活を描いた鎌倉時代の絵巻物「一遍上人絵伝」(国宝・京都歓喜光寺蔵)には、祖父の墓で供養する一遍らの情景が詳細に描かれている。一遍は全国を遊行し、白河から奥州に入り、祖父通信の墓にもうでて供養した。

その時の情景が、一遍の行跡を描いた絵巻物、『一遍聖絵』(国宝、京都歓喜光寺蔵)にたいへん写実的に描写されている。写実性の高いことがこの絵巻の特徴とされている。

この絵巻の絵と絵の間の説明文である詞書(ことばがき)には、「奥州江刺の郡(こおり)にいたりて祖父通信墳墓をたずね給(たもう)に・・・」とあって、見ゆるかぎりがススキの野で、ろくな花とてなく、ススキの穂を供えて念仏供養をしたことが記され、絵には二十人ばかりの弟子たちとともに墳墓のまわりで合掌している姿が描かれている。丘陵下の沢田、そこに面した崖べりの墳墓、周囲の丘など、描き込まれた地形は今日でも変わらない。

(※北上の歴史中世編、祖父の墓参りをした一遍より)