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北上市・ひじり塚
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江刺から北上市に向かう山道の途中、時宗の開祖「一遍上人」の祖父にあたる『河野通信(みちのぶ』が埋葬されている墳墓があります。かなり以前からこの場所を通過していますので『河野通信』の案内板があることを知っていましたが、歴史に疎い私は関心もなく通過するだけでした。 ウチノメサイトを開設し、郷土周辺の遺跡や歴史に関心が深まり、近くにある国見山極楽寺廃寺跡を訪れる機会が多くなりました。あまり関心がなかったこととは言え、『河野通信』の墳墓が「聖塚(ひじりつか)」と言う名で保存されていることを知りました。 今まで画像記録を試みたこともありましたが、サイトで紹介する内容の学習が深まらずそのままになっていました。十月に入り紅葉探しに国見山周辺を散策しながら、帰り道に寄ってみました。 ひじり塚・・・ 北上市稲瀬町下門岡(旧江刺郡)に聖塚(ひじりづか)と呼ばれる塚がある。これは河野通信(こうのみちのぶ)の墓とされている岩手県指定史跡である。その墳墓は外山と呼ばれる沢の奥にあり、その付近一帯を聖沢と呼ぶ。 墓は幅二メートルほどの掘りで方形に囲まれ、一辺はは約十一メートルほどである。これを基壇とし、中央に墳丘を築いた上円下方の墓である。 県指定とされたいきさつは、これこそ、踊り念仏で有名な時宗の開祖「一遍上人」が弘安三年(1280)に詣でた祖父河野通信の墓と判明したからである。 (※北上市編 北上の歴史より) |
ここからの画像は、墳墓のある墓所地内での撮影になります。
上の順路の画像は11月19日に撮影した画像であり、きれいな紅葉になっている場面は11月10日に撮影した画像です。最初は墓所だけでのページを作成していましたが、この地は訪れるのに不案内な場所であることから、案内をかねて順路の画面を追加してあります。 ひじり塚(河野通信墳墓)・・・ 河野通信は伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代の名高い武将です。壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦のとき勇敢な水軍をひきいて源義経に加わり大活躍をしました。鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝のそばで仕えた有力者でした。 頼朝が平泉藤原氏を攻めほろぼしたときには、岩手郡地方まで従軍し、功績によって伊予国や陸奥国に領地をあたえられました。のちに伊予国の国内の軍事や治安をつかさどる守護を命じられ、高縄城(愛媛県北条市)に住みました。 後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取りもどそうとして戦いをおこした承久の乱(1221)のとき、通信は負けた上皇がわにつきました。上皇やそれに味方した者たちは、流されたり、切られたりしましたが、通信はこの地の江刺郡に流されました。二年間ほど極楽寺に庵をむすび世捨人となって余生を送り、貞応三年(1223)五月十九日、六十八歳で世を去りました。 このあと一族からは、時宗という仏教の新しい宗派を開いた孫の一遍(智真)、北九州に蒙古軍が襲来したときに大活躍した曾孫の通有など、日本史上有名な人物が出ています。一遍は自分の新しい仏教の教えを民衆に広めるため旅に出て、その途中この地にある祖父通信の墓参りをしました。この時のようすが絵巻物として有名な「一遍聖絵」に説明文とともに描かれています。現在の史跡と絵が一致する点でたいへん貴重なものです。 この墓は土地の人々に昔から聖塚(ひじりづか)とよばれ、四角な段のうえに円く土を盛りあげた二段造りで表面を平らな石でおおい掘りをめぐらした名族にふさわしい堂々とした造りとなっています。 北上市教育委員会 (※現場にある説明板より) |