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         江刺区米里・人首丸墓碑

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大森山にある人首丸の墓碑です。

2012年8月のことでしたが、息子と二人で米里地区にある名水探しに出かけました。以前訪れたことのある「黄金延命水」ですが、明け放れた人家の庭にあるため遠慮して入れませんでした。そこまで行く道路のあちこちに、新しい案内板「人首丸墓碑」が立てられています。米里地区にある賢治街道を歩く会の皆さんの手による案内板です。

人首丸の墓碑については知っていたのですが、平成2年に種山方面から生徒達と訪れたのみでその後は訪れていませんでした。と言うよりも、集落から墓碑までの距離がかなりあり、車でやっと行ける山道の認識しかなかったらです。
今回は「黄金延命水」から戻りながら、墓碑入り口まで8.5kmの場所まで来ていますので、荒れた山道を覚悟して走ることにしました。


人首丸(ひとかべまる)・・・

初めて目にする方には人首丸とはいささか物騒な名前です。当地江刺区米里地区は昔の名前が人首村であり、小学校名や川の名前も人首の名がつけられています。歴史的には蝦夷の長「アテルイ」とも関わりのある郷でもあります。詳しいことが分かりませんのでネット資料から調べてみました。


人首の名称由来・・・

人首の名称の由来は古く、今から1200年も前の坂上田村麻呂の東夷東征の際の伝承からと云われています。坂上田村麻呂は現在平泉町にある達谷窟に立てこもる「悪路王(アテルイ)」を滅ぼします。しかし、子ども(甥という説もある)の「人首丸」は難を逃れ、現在の米里にある大森山付近まで落ち延び再び抵抗を始め、4年間に渡って抗争しました。

その後、田村麻呂の一族である田原阿波守兼光によって捉えられ斬首され、遺体は大森山山中に埋められたそうです。現在でも「人首丸」の墓と称される墳墓があり、手厚く供養されている事や、集落名も改名する前は人首村と称していた事などから、「悪路王」や「人首丸」は地域からは親しまれていた存在だった事が伺え知る事が出来ます。


アテルイ・・・

アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。

(※以上はネット各種資料から)


墓碑までの道案内 1 墓碑までの道案内・・・

人首町を通過し種山方面に向かう直線道路(R397)左側に、中沢入り口案内、右側に大きな看板があります。看板にはトコトン水車・麓山神社・黄金延命水、そして、人首丸墓碑と書かれています。

この道路を左折すると中沢集落に入り、稼働はしていませんが水車を見ながら道なりに進みます。
墓碑までの道案内 2 黄金延命水方面に向かう道と人首丸墓碑に向かう交叉点、この場所から矢印方向へと進みます。

集落が見えなくなると分岐点に看板があり、ここからの道は舗装道路から砂利道になります。ひたすら山道を走りますが、ぬかるんだりわだちがあったりで大変でした。

最後の分岐点には1.2km先と書かれ表示があり、かなり山の上の方になりました。
墓碑までの道案内 3 墓碑までの道案内 4

墓碑入り口 1 墓碑入り口・・・

山道をしばらく走り、やっと立て札のある曲がり角に付きました。

この場所に大きな看板が立てられ、びっしりと書かれた人首丸の墓碑の説明(米里文化財調査委員会作成)がありました。
墓碑入り口 2

延暦年間(八百年頃)坂上田村麻呂の率いる朝廷軍は蝦夷地を征服するために奥州に赴いた。アテルイ・モレは朝廷軍と和睦し、朝廷に会うために京都に赴くが、朝廷は二人を惨殺した(京都の清水寺に墓石がある)。しかし、悪露王の甥・人首丸は和睦には加わらず、田村麻呂将軍の娘婿・兼光の率いる朝廷軍を大森山で迎え撃った。

地形に明るい人首の戦略に朝廷軍は攻めあぐみ、長い戦いになったが兵糧攻めにあい、ついにこの地で露と消えた。時に大同元年(806)の秋、人首丸は十五・六歳の美少年であったという。

阿波守はその死を悼み、墓石を建て桂の木を伐って聖観音像を刻み、傍らに観音像を建立して、懇ろに葬った。

墓碑入り口 3 右手にこれより約100mと書かれた標識が立っています。すぐそこだなあと思ってそのまま進みましたが、行けども行けども何もありません。
墓碑入り口 4 迷い込んだ道です。このまま進むと大森山方面に出てしまいます。かなり進んだ場所から間違いに気がつき戻りました。
墓碑入り口 5 戻って良く見たら、道路脇斜面に上の方に入る狭いやぶ道があり、墓碑へはここから入るようです。斜面入り口は草が繁り、まさかここから入るとは思わなかったのが間違いの元でした。

多分ですが、始めてこの場所に来れた方で、私と同様に間違えた方もありそうです。

勝手なお願いですが、登り口斜面の草を刈り払って欲しいなと思いました。

人首丸墓碑 1 人首丸の墓碑 1・・・

入り口から少し入った場所に、「人首丸の墓碑」と書かれた柱が立っています。側には墓と思える立石と土台になっている二本の石が横になっていました。

この場所は、米里地区にある賢治街道を歩く会の会員の労力奉仕により整備されていました。二十二年前に見たときと同じ場所ですが・・・。
人首丸墓碑 2 人首丸墓碑 3
人首丸墓碑 4 日中とは言え、森の中の光線状態は良くありません。この場所ではストロボを使用し撮影しています。

しばらくこの場所にいたのですが、どこからとなくバキバキとやぶを踏みしめて歩く音がしました。こんなやぶの中を人が歩いているわけがありません。

そんなことを思ったら、もしかしたら熊かもしれないとなり慌てて車に戻りました。熊の出没があちこちであり、まさかと思いながら不安になったほっづぎ親子でした。

22年前の墓碑 1 人首丸の墓碑 2・・・

平成2年6月に撮影した墓碑の様子です。江刺第一中学校に勤務していたとき、一年生の宿泊野外活動で種山少年自然の家に同行しました。

野外活動の自然散策で、宿舎からかなり離れた場所にある大森山まで訪れました。大森山には、人首丸の墳墓がある初めて知り撮影しました。

この画像は、プリントされた写真からスキャナーで取りこみ画像化しました。
22年前の墓碑 2 22年前の墓碑 3
22年前の墓碑 4 22年前の墓碑の様子ですが、現在と配置が変わっていません。周囲が熊笹に覆われ、土台石にはコケが生えています。

立石の後に木が生えていますが、今よりかなり細い状態が分かります。
22年前の墓碑 5 墓碑から少し離れた場所に、ドルメンとも思える巨大な石が転がって(置かれて)います。とても不思議な感じのする石組みですが、人首丸の墓にしては大きすぎます。

撮影したときはそれほど想いが馳せませんが、改めて伝説等を読み当時のことを知りますと興味が湧いてきます。
22年前の墓碑 6 側に寄ってみると、上の石の下には支えになる土台と思える石があります。遠野市にある続き石の様にも見えてきます。

続き石の感覚で改めてみると、巨大なドルメンとも言えそうです。
22年前の墓碑 7 見る場所を変えると、あたかも石の下が洞穴の様にも見えてきます。人首丸伝説によると、大森山山中にある洞穴に隠れて戦ったとありますが、もしかしたらこの石の下に隠れていたのかもしれません。
22年前の墓碑 8

大森観音堂跡・・・

坂上田村麻呂、人首丸をこの地に埋葬し墓石を建て観音堂を建立し、聖観音像を安置した。
数度の野火にあい現在は市内玉里地区に移されている。

少年自然の家   (※説明板からの記述)

春になったら、玉里地区に移転された観音堂を訪れてみたいと思います。昨年8月に訪れた時、この場所が分からず撮影できませんでした。


おわりに・・・

人首丸や人首の言葉の由来を知りたくなり、ネット資料等で検索してみました。驚いたのは、人首村と言うキーワードで検索するともの凄いカウント(二億)がヒットしたことです。「悪路王」がアテルイ本人であるという説がありますが、真偽の程はともかく、人首丸がアテルイの子どもであると言う説に興味を持ちました。

話しは替わりますが、1月11日NHKBSプレミアム番組でドラマ「火怨・北の英雄アテルイ伝」が四回シリーズで放送されます。この番組は郷土の作家「高橋克彦」さんの原作のテレビドラマ化であり、家の近くにある藤原の郷等で撮影されたものです。月刊誌「歴史街道」の愛読者でもありますが、今月二月号に「東北の英雄アテルイ」の特集記事が組まれています。