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        奥州市江刺区稲瀬・金華山


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稲瀬宝禄地区に建立されている金華山、子どもの頃から見てきている石碑です。

稲瀬宝禄地区に建立されている金華山・・・

稲瀬宝禄地区に建立されている金華山、子どもの頃から見てきている石碑です。先頃でしたが、グループの皆さんと地区内にある石碑を訪ねて撮影しました。宝禄集落にお住まいの方から、石碑が建立されてきた歴史の説明を受けました。建立されている金華山の石碑は、石塔とも言える3mを超す大きな石の板(粘板岩)であり、裏には天保十年の年号が彫り込まれています。

お話によると、天保十年(1839年)集落内の二十六戸の皆さんが石碑を建立するために貴重な浄財を出し合って、牡鹿半島の金華山まで出かけ現地から石を運んできました。今ならば大型重機やダンプカーで簡単に運べるのですが、当時はすべて人力に寄るしかなく、その苦労は並大抵なことではありません。ましてや、金華山から切り出した石を石巻まで船で運び、そこから、北上川の水運で上流にあたる江刺・愛宕(おだき)にある船着き場まで運んできたと言います。

幸いだったのは、同じ伊達藩の中での輸送ですから手続き上は容易であったと思われます。ここまで運んでくる諸掛かりの費用は莫大な金子が必要であったと思われます。当時としても、集落上げての大型プロジェクトであったと言えます。現在でも四十戸の皆さんが毎年当番制で講中を組み金華山までお札を頂きに行っていると言います。

路傍にある様々な形態の石碑、石碑に刻まれた願いの文字が建立した人々の願いや当時の世相を教えてくれます。詳しいことは分かりませんが、私がどこまで当時の人々の心に迫れるか、石碑を通して紹介したいと思います。


金華山の石碑群 1 道路十字路脇に立つ金華山の石碑(石塔)。

石碑を守る形で、様々な名称が刻まれた石碑が並びます。

金華山の正面からの撮影です。
金華山の石碑群 2 金華山左端からの撮影です。
金華山の石碑群 3・・・集落代表の方から説明を頂きました。 金華山の前で建立に至までの由来や、当時の人々の生活についてお話をお聞きしました。

下の画像は、金華山の石碑の表と裏面の様子になります。

石碑の表 石碑の裏

石碑の切り出し 1 石碑から文字の切り出し・・・

石碑の裏面には、天保十己亥年 十月二日、村内安全、の文字が読み取れます。

村内安全と大きく刻まれていますが、当時の人々の生活に不安なことがあり、金華山までお参りに出かけ石を運んでこの地に建立しました。
石碑の切り出し 2 下の方には世話人の名前を先頭に、建立に関わった村民の名前が刻印されています。名前がはっきりと読み取れるものが多いと思います。

それほど古い時期ではありませんので、当時の先祖の名前を子孫の方々は確認できると思われます。
石碑の切り出し 3 世話人の部分の拡大です。七人の先立ちの方の氏名が刻まれています。
石碑の切り出し 4 金華山の文字の切り取り・・・

「山」以外は旧字体と思えますので正確な字体が分かりません。

金華山の文字左右の端には、五穀豊穣と読み取れる書体がありますが、古い書体であり読み取れませんでした。
石碑の切り出し 5 石碑の切り出し 6

その他の石碑より・・・

石塔とも言える金華山の両隣には、七基の石碑が並んでいます。この地に整理して安置する時に並べたものと思われま。刻まれ文字がはっきりと読めるものや読み、はっきりとは読み取れないものもありました。

七基の石碑・・・、天照皇大神宮二基、山神尊、青麻神社、馬頭観音塔三基とみました。

その他の石碑 1 その他の石碑 2
その他の石碑 3 山神尊・・・

天保六年の建立が記されています。山神尊の由来を神楽の舞から記してみます。

山の神とは、春は里に降って農業の神様となり、秋は山に帰って山を守る神様で、農家や山仕事をする人々にとっては絶対的な存在です。

山(サン)は産(サン)に通じることから婦人の信仰も深いと言います。

                    (※早池峰神楽より)



集落の皆さんの願いがどこにあったのか、私はお聞きした事がありません。昔からの言い伝え等をお聞きしてみたいものです。

金華山神社・・・

黄金山神社は、宮城県石巻市の牡鹿半島東南端に相対する太平洋上の孤島、金華山に鎮座する神社である。金華山の西斜面中腹に西面して鎮座するが、金華山全島を神域とする事もあって神社と金華山(島)とほぼ同義に用いられる場合があり、金華山神社と通称されたり金華山黄金山神社と称したりもしている。

商売繁盛や開運招福といった現世利益を願う参拝者や観光客で賑わっているが、近代以前は弁財天(弁天)を祀る金華山大金寺という女人禁制の修験の真言宗寺院であり、広島県の厳島神社等とともに日本の「五弁天」の一にも数えられるとともに、霊場として山形県の出羽三山、青森県の恐山に並ぶ「東奥三霊場」に数えられた。


金華山詣と金華山講・・・

各地に金華山信仰の為の金華山講と呼ばれる講が結成されたが、既存の講組織から転化したものもあったようで、中には巳待講と称され巳日を中心に種々の宗教行為をそのまま伴っていたものもあった。

講への加入は女人禁制の思想から男子に限られ、それも主として戸主層から構成されており、年に数回設けられる。金華山詣が重ねられると、それを記念する石碑が村落の入り口や辻、鎮守社の境内等に建立される事があり、また弁財天を鎮守社境内に小祠として勧請したり屋敷神として祀ったりする事もあった。

                                                       (※ウイキペディアより)

各地にある石碑に刻まれた文字を見ると、苦労してその地に詣でて来たと思われる神社の名前が刻まれています。金比羅山、湯殿山、古峯山等々の文字を見るたびに、昔の人々が苦労して詣でてきた記念に石碑を建立したと思います。

                                                      (2014.09.09 作成)

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