昭和25年頃の北上和賀地区中学校・・・
父の残してくれた手作りアルバムに、今は見られない新制中学校開設当時の懐かしい写真があります。昭和二十四年から三年間和賀出張所に勤務していた父は、管内の小中学校の指導に携わっていました。今と違って交通機関も道路事情も不便な頃、移動方法は鉄道と乗り合いバス、そして、ほとんどは徒歩か自転車であったと思われます。
当時の父は自分用のカメラは持っていませんので、役所のセミ版カメラで撮影しフィルムから密着焼きした手作りアルバムです。以前から気になっていたアルバムでしたが、今回アーカイブス・ウチノメ屋敷編を作成するため、セミ版写真をスキャナーで取りこみ画像化してみました。
アルバムには、未撮影中学校の名前が残っています。黒沢尻中(当時私が在学中でした)、鷲合森中、川尻中、田瀬中、二子中、更木中、口内中の名前が書かれたままになっています。
今から六十年ほど前の新制中学校(あえてこの表現をしました)の様子、その後の市町村合併や学校統合等により廃校になり現存する校舎はありません。当時この校舎で学んだ私と同年配の皆さん、心に残る想いでの校舎としてご覧頂ければ嬉しい限りです。
せっかくですから、当時の学校の内容を知りたくなり資料を探してみました。頼りになるのが岩手県学校関係職員録ですが、古い資料が残っておらず手にしたのが昭和34年度のものでした。その上、個人情報云々でコピーは許可されず学校名、住所、職員数、学級数、生徒数だけの書き取りになりました。
したがって、昭和25年当時の住所や学校名、職員数、学級数、生徒数とは合致していないことをお断りいたします。
当時の中学校についての父の記録から・・・
軍政下の新制中学校・・・戦後の教育は、教育を一般行政から切りはなし、新しく委員会制とし、岩手県教育委員会が出来、その事務局の各都市への出張所のうち、和賀郡の教育を管理するための役所が置かれた。
和賀出張所は和賀郡全体を管理区域とし、その地域内の小学校、中学校の教育全般にわたる運営に当たっての相談にあづかるのが指導課長で、社会教育課長は兼務であるが、地域の教育のすすめに助言をし指導もする。
和賀の地は何度かは訪ねているが、それは一部分で、地域全体については未知で、殊にも土沢方面などは全くと言っていい程認識がなかった。そこでまず、地図を開いて町村の分布状態を知ること、そしてその町村に小学校、中学校がどんなように散らばっているか、から勉強する。
指導主事になった頃は、小学校はまず元の学校を使用しているからいいとして、中学校は、どこも、小学校の片隅を借りたり、使用に耐えないような建物を改装して転用したりの物が多かった。したがって学校として体裁の整ったものは一つもなかったと言っていいと考えられる。すべての土地で建設計画中であったと思う。
アメリカ軍政官に容赦はない。意地悪だと思う程にその欠点を指摘し、日時を定めて適正化を命令したものだ。殊にも新制中学は、間に合わせの、にわか中学校である。だから便所などは粗末な所が多かった。便器には必ず蓋をすることとか、手洗い場をもっとおおきくせよとか・・・以下省略。
(※父の追悼録・人生漫歩から抜粋) |