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高炉周辺の様子 1 高炉周辺の様子・・・

高炉では、動力源に水力を利用しふいごへの送風や鉱石の破壊に利用されていました。水路跡があちこちに残り、その源になる川の流れも残されています。

この流れはかなり上流の方であり、先頃の台風被害の跡が残されていました。
高炉周辺の様子 2

この場所は、インフォメーションセンターから橋を渡った場所の川の流れになります。この流れが濁流になったとは信じられません。

下の左の画像は御日払所のあった場所であり、右側の画像は以前に天皇陛下が御巡業された時の休憩場とのことでした。

御日払所のあった場所 天皇陛下が御巡業された時の休憩場
高炉周辺の様子 3 御日払所のあった場所と、天皇陛下が御巡業された時の休憩場から一段下がった場所から見た様子です。画面下の場所には三番高炉があります。
山の神社の石碑 1 山の神社の石碑とその横には牛馬観世音碑が並んでいます。

下の画面左は鳥居越しに見た二つの石碑の拡大になります。右側画面中央に生えているのは一本桜とのことですが、まだ時期が早いのか開花の様子は見られませんでした。
山の神社の石碑 2 一本桜
水路跡の石組み 広い場所各所に残されている水路跡の石組みです。


水路跡・・・

高炉の送風装置であるフイゴを水車によって動かすため高炉場の南端から北端まで約400m延びており、水流を二又沢川から取っている。

フイゴには、地元の鍛冶で使用していた箱形フイゴを採用した。

御日払所(おひはらいしょ)・・・

御日払所は鉄鉱山の事務を行う場所で、仮高炉建設が開始された安政5(1858)年に建設された。最盛期である明治2年の大橋鉄鉱山では506名の従業員のうち30名が御日払所で業務を行い、12の係に分かれていたという。橋野鉄鉱山は最盛期に1000人の従業員がいたとされることから御日払所には50名以上の人員がいたものと想定される。

明治27年(1894)年に橋野鉄鉱山が廃業となった後、建物は払い下げられ、移設された。その後、同地に別の建物が建てられたが、昭和20年代に移設された。

御日払所は、柾葺平屋、68坪で、そのほかに、板蔵と土蔵があった。昭和30年、31年の岩手大学の調査で、礎石が確認されている。

御日払所の前は石垣が組まれているが、二番高炉の石組み石が転用されているようであり、明治4年以降に作られたものと考えられる。



橋野高炉・・・

橋野高炉は、大橋高炉の出銑鉄成功の翌安政5年に盛岡藩営として、大島総左衛門(高任)により、仮高炉がけんせつされ、その後一番、二番高炉を増設、仮高炉も三番高炉として改修された。

一座の高炉は30〜50日稼働し、修繕するというサイクルのため、3座の高炉が順々に稼働した。年間実働は約250日であった。

最盛期には年間25万貫(約938トン)を生産した。明治初期には銭座を併設するが、すぐに鋳銭禁止となり、その後は三番高炉のみの生産で、明治27年(1894)まで稼働した。


最初にもふれましたが、見学時間等の関係から全ての高炉跡の見学が出来ませんでした。ここでは、三番高炉跡の画像から紹介したいと思います。

橋野高炉の説明板 三番高炉・・・

橋野高炉は、大橋高炉の出銑鉄成功の翌安政5年に盛岡藩営として、大島総左衛門(高任)により、仮高炉がけんせつされ、その後一番、二番高炉を増設、仮高炉も三番高炉として改修された。(※以下は別記)

ここからは三番高炉跡の様子です。以前見学会で来た時は、入られない様に柵が設けられていました。今は自由に立ち入ることができます。
三番高炉 1 ガイドの方が説明される時、手に何にかもっていました。何と、強力なアルニコ磁石です。そして付近に落ちている石にくつけると、鉄鉱石(磁鉄鉱)であるとぴたりと吸い付くのです。

持ち出しは禁止ですと書かれたあるものの、何となく手に入れたくなるから不思議です。もちろん磁石がないと判別が出来ません。

ここからの画像は、色んな方向から撮影した様子から編集してみました。自由に立ち入り、触れてみたり近くから見ることが出来ますので最高です。
三番高炉 2 三番高炉 3
三番高炉 4

巨大な花崗岩の切り出しで構成されている三番高炉の一部分です。資料によると、花崗岩の基壇2段の上に約5.4m四方、高さ2.8m花崗岩の石組(5段)が積まれており四隅には縦長の花崗岩が配置されている。

当時の高さは約7.0m。高炉中央に炉底塊がある。この石組み形式は、大橋高炉においても採用されており、初期の高炉の基本形であったと考えられる。


この面は丁度東側を向く石組みになります。

三番高炉 5・・・気管の穴 石組みの穴の開いている部分の拡大ですが、この穴は中央に立つ面の中央に3ヵ所あります。

当時の図面に記されている事から、3列三段の9個あり気管と呼ばれるものです。働きとして、炉内のガスなどを排出するものだと言います。
三番高炉 6・・・高炉中央に生じる炉底塊 1 高炉中央に生じる炉底塊、鋳物の鉄の塊でしょうか。多分ですが、この部分に磁石を近づけるとガツンと吸い付けられると思います。

下の画像左はその拡大です。右側の画像は別の場所の物です。
三番高炉7・・・炉底塊の拡大 三番高炉 8・・・他の場所の炉底塊
かつては四方に花崗岩の塊があったはずですが、部分的に残るのみです。
動力源としての水車を回すための水路跡の石組みです。


現存最古の洋式高炉三番高炉跡
おわりに・・・

三番高炉を東側から見た様子です。先ほど紹介した気管がはっきりと残っています。この高炉は、三番高炉のみの生産で、明治27年(1894)まで稼働していたと言います。頂いた資料にも書かれてありますが、明治日本の産業革命遺産としての橋野鉄鉱山、現存最古の洋式高炉跡がここ橋野地区に残されています。

最初にも書きましたが、沿岸部に勤務していた頃、家に帰る時や勤務地に向かう時に必ず通った笛吹峠の釜石側にあります。平成29年3月の台風により、連絡道路が完全に破壊されしばらくは通ることが出来ませんでした。その後ですが、釜石側からの連絡路は部分補修がなされ通行可能になりました。しかし、内陸部遠野方面からの最短距離での通行がいまだに出来ないままになっています。

途中にある和山牧場方面からのアクセスが可能ですが、山道の地理に慣れていない方には無理です。一日も早い回復が待たれてなりません。開通すれば遠野側から笛吹峠経由で30分ほどで現地に着きます。今は、遠野、釜石、鵜住居、栗林、そして橋野地区に入ることが可能です。内陸部からの見学はかなりの迂回路になるので、時間がたっぷりかかりますし帰る時もその道を戻るのみですから大変です。
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